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「――夏生、話がある」 美和子との約束を棚上げしたまま五日が過ぎた日の朝、起きぬけにいきなり兄からそう声をかけられ、夏生は驚きのあまり自室の前で固まった。 「おい、聞いてるのか? 夏生?」 夏生が起き出すのを待ち構えていたらしい兄は、自分は休みなのか、まだパジャマ姿だった。夏生と違い、着る物にも気を使う兄が、家の中とはいえこんな風にだらしのない格好でうろついているのは珍しい。その上あまり眠れなかったのか、平素はくっきりとした二重瞼が、今日は少し腫れぼったいような気がする。顔色もいまいち優れない。 「かお……兄貴、どっか具合でも悪いのか?」  昔の癖で、つい下の名前で呼びそうになって夏生は焦った。二十歳にもなって兄に向かって『薫ちゃん』はないだろう。 「別に、どこも悪くはない」  数年ぶりの会話だというのに、薫はさっきから頑なに夏生と目を合わそうとしない。よく見ると目の下には隈まで浮いている。元々色素の薄い薫だが、今の顔色は色白を通り越して青ざめていた。 「今日は大学休み?」 「いや、午後から三コマだ」 「ならまだ眠れるだろ。もう一度寝てきたら?」  薫の青白い顔を見ていると、夏生は不安になる。今でこそ普通の生活を送れているようだが、出会った頃は小児喘息を患っていて、しょっちゅう発作を起こしていたのだ。  雨が降った日などは深夜まで咳が止まらず、小さな体を丸めて苦しげに眉を寄せる薫の姿を、夏生は息を殺して見つめている事しかできなかった。そして発作を起こす日は、たいていこんな青い顔をしていた。あの頃の不安な気持ちが蘇り、嫌な具合に胸が騒ぐ。 「なあ、マジでひどい顔色だぞ――」  いつのまにか自分の目線より下にある薫の頬に、手の甲でそっと触れる。人より体温が低いのか、そこはヒヤリと冷たかった。 「……っ! な、何? なんだよ!」 「何って、ちょっと顔に触っただけだろ」 「勝手に触るなよ、びっくりするだろ!」  薫は青い顔を心なしか少し赤くして、小型犬のようにキャンキャンわめいている。その様子をまじまじと眺め、夏生は首を傾げたくなった。  義理の兄の薫は、品のある整った顔立ちに、人当たりのいい落ち着いた性格の持ち主で、その上勉強もスポーツもなんでもそつなくこなす、でき過ぎの人間だった。それがちょっと弟に顔を撫でられたくらいで、この過剰反応は一体どうした事だろう。 「兄貴、熱でもあんの?」  青ざめていた頬はみるみる朱に染まり、今や首筋まで真っ赤だった。額に触れようとした手を勢いよく払われてしまい、夏生は目を丸くする。 「なんだよ、デコで熱計ろうとしただけじゃないか」 「俺はいたって健康だ! とにかく話があるから今日はまっすぐ家に帰ってこいよ! わかったな!」  それだけ言うと、薫は派手に足音を響かせながら、二階の一番奥にある自室へと引き上げて行った。  わざわざ言いに来なくても、夏生に限って学校帰りに寄り道する事などありえない。もちろん兄からすれば、そんな事は知りもしないのだろうが。  しかしたとえどんな理由でも、薫の方から声をかけてくれたのは嬉しかった。これで美和子の事を頼みやすくなったし、何よりまた何でも話せる関係に戻れるかもしれない。そう思うと、長らく心にかかっていた靄が晴れるようだった。  夏生は二つ年上の血の繋がらない兄の事を、出会った時からずっと慕っていた。話をしなくなってからも自慢の兄である事に変わりはなかったが、できる事なら大好きな兄との関係を修復したいと密かに願っていたのだ。さっきの兄の態度は気になるが、今日話を聞けばその理由もわかるだろう。  学校を終えて家に帰る時間が待ち遠しい。ほんの先ほどまで、美和子の襲撃を恐れてビクついていたのが嘘のようだ。  夏生はいっそ晴れ晴れとした心持ちで、一階のダイニングに向かう。そして肝心の薫の話の内容については、迂闊にも何の警戒もしていなかった。
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