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「あ、噂の弟くんだ! おかえりー」
「お、おかえり、夏生」
「――――ただいま」
数年ぶりの兄からのおかえりに狼狽する間もなく、夏生は見ず知らずの若い女に腕を取られた。
「あの……」
「嘘みたい、すっごいカッコイイじゃない! どうしよー、薫くん!」
何がどうしようなんだ。というか、このキャピキャピした女は一体何者だ。
「えーと、彼女は俺の大学の後輩で山之江沙織さんっていうんだ」
妙に強張った笑顔で、薫が説明してくれる。だがなぜ自分が薫の後輩を紹介されているのか、まるで理解できなかった。
肩にバッグをかけたまま眉を寄せていると、アイスティーが載った盆を持って現れた母に、「二人ともとりあえず座ったら」とソファーへと促された。山之江とやらはなぜか自分の隣に腰かけ、こちらを見上げてにっこりと微笑んでみせる。
どう考えてもこれは初対面の距離ではない。不信感も露に凝然と隣を見つめていたら、向かい側で薫がコホンとわざとらしく咳払いをした。
「じゃ、お母さんはちょっとお買い物に行ってくるわね。沙織さん、ゆっくりしていってくださいね」
「はーい。ありがとうございます」
言葉を交わし合う二人は笑顔だが、どこか芝居がかって見えるのは気のせいだろうか。
母が出かけた事を確認して、薫が緊張の面持ちで夏生に声をかけてきた。
「えーと、実は夏生に折り入って頼みがあるんだ」
「頼み?」
兄が自分なんかになんの頼みがあるというのだろう。夏生が首を捻っていると、隣に座る山之江がこちらに身を乗り出してきた。胸元が丸く抉れたサマーニットを着ているせいで、目のやり場に苦労する。
「あのね、実は弟くんにこの辺を案内して欲しいの。最近越してきたばっかりでよくわかんなくって」
「は? どうして俺が?」
そういう事なら出無精の自分よりも、社交的な薫の方が適任だろう。彼女も全く知らない夏生より、同じ学校に通う兄と一緒の方が気楽なはずだ。
山之江と薫の顔を交互の眺めながら、いっそう不信感を募らせていると、まるで取り繕うように薫が笑顔で語りかけてくる。
「俺も学校周辺をいろいろ案内したんだけど、この辺りの事なら俺より夏生の方が詳しいだろ」
「まあ、それはそうかもしれないけど……」
確かにこの辺りに限って言えば、親の再婚でここに移り住んだ薫より、生まれた時からこの街で暮らしている夏生の方が詳しいだろうとは思う。だが、それならば自分よりもよっぽどぴったりな人間がいた。
「じゃあみわに頼んでみるよ。山之江さん? も同性の方が色々訊きやすいだろうし」
誰が相手でも気後れせず話ができる美和子なら、案内役にはもってこいだ。自分にしては気の利いた提案だと満足する夏生を余所に、薫と山之江は忙しなく目配せをしている。
「でっ、でも美和子ちゃんってバイトを三つも掛け持ちしてるんだろう? 無理をさせるのも悪いし、俺としては夏生に頼みたいんだけど、ダメか?」
「ええっと、あたしもできれば夏生くんにお願いしたいな。全然知らない子だと緊張するし」
イヤ、俺もあんたの事はこれっぽっちも知らねーし、という心の声は、とりあえず口に出さずに胸に留めておいた。
空調の効いた快適な空間で、二人は同じように額に汗を浮かべている。だが薫の言う通り、ただでさえ多忙な美和子にこれ以上頼み事をするのは気が引けた。気は進まないが、夏生が引き受けるほかないようだ。
「わかったよ、この辺を案内すればいいんだな?」
「引き受けてくれるのか⁉」
「ありがとう、夏生くん!」
なんだかよくわからないが、薫が困っているのなら手を貸してやりたかった。ちょっと近所を案内したら適当に帰ればいいだけの事だ。
「じゃあ、いつにしますか?」
「そうだなー、ちょっと急だけど今週末とかどう?」
「構いませんよ」
「ほんと? 助かる! あ、携帯の番号とメールアドレス教えてもらっていい? 後で時間とか決めよ!」
「はあ……」
山之江はバッグからスマートフォンを取り出すと、更に距離を詰めてくる。彼女がスマホに気を取られているのをいい事に、夏生は豊かな胸の谷間を堂々と見下ろしながら、なんとなくこの人は兄と寝た事があるのかもしれないと思った。
ちらりと薫に目をやると、兄はなんとも言えない表情でこちらを眺めていた。その物言いたげな視線が何を訴えているのか、人の感情に敏くない夏生には、読み取る事はできなかった。
お互いのアドレスを交換した後、山之江は上機嫌で家を後にした。バス停まで送ってくると言う薫の背を見送り、ようやくリビングに一人になる。
「なんかめんどくせー事になったな」
温くなってしまったアイスティーに口をつけながら、夏生は鬱々と独りごちた。
正直、三次元の女は苦手だ。美和子もそうだが、あの激しく乱高下するテンションにはついていけない。話している言葉の意味もいまいち理解できないし、何より共通の話題がない。薫からの頼みでなければ即断っていたところだ。
アイスティーを飲み干してしまった夏生は、リビングのソファーに行儀悪く寝そべった。クッションから香る甘い匂いに、思わず眉根を寄せる。香水や化粧品の人工的な甘い香りは好きじゃなかった。
「夏生? そこにいるのか?」
いつの間にか帰っていたらしい薫が、リビングに顔を出す。先ほどまでとは打って変わって、どこか晴れやかな表情だ。
「案内、引き受けてくれて助かった。ありがとうな」
「別に、大した事じゃないし」
不意打ちだったせいで、必要以上にぶっきらぼうな言い方になってしまった。やっぱり薫と話をするのは、まだ少し緊張する。
「週末、予定なかったのか? その……美和子ちゃんとか」
薫の言葉に、頬がぴくりと反応する。
思い出した。自分の方こそ、のっぴきならない状態だったのだ。薫に頼み事をするなら、貸し一つ状態の今しかない。
「……あのさ、その美和子なんだけど。兄貴、一日あいつに付き合ってやってくれないか?」
「俺?」
薫は突然の申し出に目を丸くしている。夏生は体を起こし、ソファーに座り直した。この機会を無駄にしてはならない。催促メールに怯える日々から、一刻も早く脱却したい。
「いつでも兄貴の都合のいい日でいいんだ。あいつに我儘は言わせないから。頼むよ」
膝に手をつき、ガバリと頭を下げる。夏生の要求がよほど意外だったのか、薫は長い睫毛を何度も瞬かせた。
「俺は別にかまわないけど……」
「本当か⁉」
(やった……!)
ついに自分は大任を果たしたのだ。重圧から解き放たれ、空でも飛べそうな気分だった。そして夏生を救ってくれた薫は、慈悲深い菩薩の化身だ。
「ありがとう、兄貴! 本当に助かるよ!」
おもむろに立ち上がり薫の前まで移動すると、夏生は喜びと安堵のあまり細い体をギュッと抱きしめた。これで美和子の襲撃に怯える毎日から解放される。そう思うと、これまで疎遠だった事が嘘のように、薫との距離が一気に縮まったような気がした。
「ちょ……おい、夏生っ!」
夏生のあまりの感激ぶりに、薫はひどく動揺しているようだった。腕の中で苦しげにもがく様子に、夏生は腕の力を緩める。
「ごめん、つい嬉しくて。なあ、いつなら平気?」
「……あ、ああ。そうだな、じゃあ週末にするか」
つまり、夏生と山之江が出かけるのと同じ日だ。
「わかった。みわには俺から連絡しておく」
「そうだな、そうしてくれ」
「じゃあさっそく電話してくる。まだバイトの時間じゃないはずだから」
「ああ、任せる」
夏生は薫の体を解放すると、ソファー横に投げ出していたショルダーバッグを手に自室へと急いだ。最初は面倒な事になったと思ったが、結果オーライ。渡りに船とはまさにこの事だ。
これでようやく心の安寧が取り戻せると浮かれていた夏生は、リビングに一人残された薫の表情が微妙に強張っていた事に気づかないでいた。
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