3

1/4
前へ
/32ページ
次へ

3

 日曜日は快晴だった。  待ち合わせ場所の最寄り駅に到着し、夏生は腕時計で時間を確認する。十時四十五分、約束の時間まであと十五分だ。  この日の夏生はいつもの定番スタイル、Tシャツとジーンズにビーサンではなく、薄いブルーのボタンダウンシャツに裾を少しロールアップさせたベージュのチノパンという小洒落た服装だ。足元はスポーツブランドのスニーカー、バッグは革製のボディーバッグ。全て母と薫が今日のために用意してくれた物だった。  ちょっと外で人と会うぐらいで大袈裟なと内心呆れたが、やけに楽しそうな二人を見るといらないとは言えず、ありがたく好意に甘える事にした。  待ち合わせの時間まであともう少し。駅の改札口前の柱に寄りかかり、夏生は読みかけの文庫本を開く。道行く女性たちの熱い視線にはまるで気づかず、あっという間に本の世界に没頭した。  同じ体勢から動かなかったせいで首が痛い。夏生は一旦文庫本をしまい、首と肩を回す。コキコキ音を鳴らしながら腕時計を確認すると、もう正午過ぎだ。  もしかしたら待ち合わせ場所か時間を勘違いしていたのかもしれないと思い、携帯のメールを確認する。だが間違いなく十一時に北改札口と書かれてある。電話をかけるべきか迷ったが、よく知らない相手にかけるのも躊躇われ、散々悩んで目の前のコーヒーショップに移動する事にした。ここなら山之江が現れたらすぐに気がつくだろう。念のため『北改札口前のコーヒーショップにいます』とメールを送信してから、さほど混んでいない店に入ると、外がよく見える窓側の席を選んで腰かけた。  今頃兄と美和子はどうしているだろう。美和子はわがままを言って薫を困らせてはいないだろうか。  今朝の薫は自分の支度などそっちのけで、せっせと夏生の世話を焼いていた。あれをこう着ろ、これを身につけろ、髪は整髪剤できちんと整えていけ。これまでのそっけなさが嘘のように、なんのかんのと甲斐甲斐しく構ってくれた。初デートに赴く中学生じゃあるまいしと少し気恥ずかしく感じたが、薫に気にかけてもらえる事は素直にとても嬉しい。  兄の背中ばかり追いかけていた幼い頃を思い出し、懐かしさとほんの少しの寂しさがない交ぜになって、夏生の心を淡く波立たせる。  運ばれてきたコーヒーに口をつけ、胸の中に突然生まれた感傷を無理矢理追い出すと、夏生は再び文庫本に目を落とした。 「おかわりはいかがですか」 「――え?」  コーヒーポットを手にしたウエイトレスに声をかけられ、夏生は目をしばたかせる。携帯を確認すると時刻は十三時三十分、着信履歴もなければ、メールを受信した形跡もない。  おそらく山之江はもう現れないだろう。そう思うとようやく肩から力が抜けた。どうやら無意識のうちにかなり気を張っていたらしい。 「すみません、もう出ます」  コーヒー一杯で長居するのも気が引けて、夏生は急いで立ち上がり、会計を済ませて店を後にした。  思いがけず時間ができたので、駅に来たついでに繁華街まで足を伸ばし、画材を購入する事にした。文具屋で消耗品の数々を買い、近くの書店で授業に使う画像ソフトの関連書籍を何冊か購入する。小腹が空いたのでセルフサービスのカフェで軽く食事をしたら、もう夕方だ。約束こそ果たせなかったが、それなりに休日を満喫した夏生は、最後に懐かしい場所に寄ってみた。  日没間近の公園には、既に子供たちのはしゃぐ声は聞こえない。夕飯の支度をしているのか、近所の家から煮炊き物の匂いがして、郷愁をいっそう煽る。  小学生の頃、夏生は兄にべったりだった。授業が終わってもすぐには帰らず、兄が出てくるのを校門の前で待って一緒に家に帰った。優しい母が用意してくれたおやつを食べると、今度は兄の後についてどこにでも出かけていった。兄の友人たちは小さな夏生がうろちょろする事にいい顔はしなかったが、兄は嫌な顔などせず、いつも笑顔で手を引いてくれた。転びそうになると「大丈夫?」と声をかけてくれ、その後少し歩くペースがゆっくりになる。さりげない気遣いを、当時小学生だった兄は何でもない事のようにやってのけた。  そんな兄の優しさにどっぷり浸りきっていた夏生は、中学生になった薫がこの公園で女の子と楽しげに話している姿を見て、心臓がひっくり返るほどの衝撃を受けた。  自分に向ける物とは違う、照れたような笑顔。これまで知らなかった兄の一面を見せつけられ、夏生は一人置いてきぼりにされたような、心許ない気持ちになった。あんなに身近だった薫が遠く感じるようになったのはそれからだ。 (仕方がない。薫ちゃんは僕だけのものじゃないんだから)  そう自分に言い聞かせ、夏生は兄離れしなくてはと強く思うようになった。  ほどなくして薫はあの時の女の子と付き合いだし、夏生はますます兄と距離を置くようになってしまった。  この場所は夏生にとっては特別な場所だった。兄との訣別を心に決めた場所。生まれて初めて味わった、あの自分の根っこが揺らぐほどの喪失感。好きな女の子にフラれた時でも、あれほどのショックは受けなかった。  あれから約十年、今も変わらず夏生にとって薫は大事な人だ。この先、薫が夏生の手を引いてくれる事などもう二度とないだろう。それでも笑顔ならば向けてくれるかもしれない。よそ見しないでちゃんと後ろをついて来いよと、時々は振り返ってくれるかもしれない。それだけで夏生には充分だった。  ブランコの錆びたチェーンをそっとなぞり、夏生はひっそりと頬を緩ませる。着慣れない洒落た服を着て、思うまま買い物をしたり、街をぶらついたりする。たまにはこんな休日もいい。  薫はこうして今も変わらず、夏生の背中を押してくれるのだ。その事が嬉しくて、なんだか面映ゆかった。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

377人が本棚に入れています
本棚に追加