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藤江夏生は焦っていた。
もう八月だというのに、この夏のイベントで販売する予定の原稿がまだ終わらないのだ。
サイト上では新刊発行のアナウンスと共に、ネット書店委託分の予約受付も始まっているだけに、今になって「やっぱり間に合いませんでした」ではすまされない。
時刻は早朝四時五十六分。もう間もなく街が目を覚ましだす時間帯だ。そして約束の刻限まで僅か四時間。印刷所までの移動時間を考えると、実質三時間半ほどしか残されていない。それなのに下絵状態のできそこない原稿があと七ページもある。
どんなに急いでもペン入れに二時間、ゴムかけ、ベタ塗り、トーン貼りに二時間半、修正などの仕上げに三十分、最低でも計五時間は必要だ。これまでも何度となく危機を乗り切ってきた夏生だったが、今回ばかりは駄目かもしれない。
サイトのトップページにお詫びを載せた後、ブログのコメント欄が軽く炎上するところまで想像し、夏だというのに背中に冷たい物が走る。オリジナルキャラクター「皇(すめらぎ)かごめ」のツインテールに艶を描き足しながら、夏生は無駄に男らしく節立った手で、額に浮いた汗を拭った。
確かにブログの炎上は怖い。愛するキャラクターに対する罵詈雑言など目にしようものなら、原稿用紙に向かう事すら恐ろしくなってしまうだろう。だが夏生が最も恐れるのは、自分なんかの新刊を楽しみにしてくれている読者さんをがっかりさせてしまう事だった。それだけはなんとしても避けたい。
(こうなったら奥の手を使うしかないか……)
できればこの手だけは使いたくはなかったが、背に腹は代えられない。
夏生は深々と嘆息すると、バッグから二つ折りの携帯電話を取り出し、既に指が覚えてしまった番号を迷いなくプッシュする。数回の呼び出し音の後、電話は繋がった。
『…………もしもし』
さすがに午前五時だけあって、まだ夢の中だったのだろう。突然の電話で起こされた相手は、不機嫌さを隠しもしない。
「みわ、俺だ」
顎に携帯電話を挟み、右手は機械的に動かし続ける。一分一秒無駄にできない状況なのだ。本来ならば電話する時間すら惜しい。
『そんなの番号見りゃわかるよ。つか眠いんだけど? 五時に電話とか、バカなの? 一体どういうつもり?』
「バイトをさせてやる。今から八時までの三時間で日給は一万」
自らも学生の身分で、一万円の出費は痛い。だがこの際金に糸目をつけてはいられない。今の夏生にとっては、時間内に原稿を上げて印刷所に持って行く事こそが最優先事項なのだ。
『はあ? たったそれっぽっちで女子大生の貴重な朝の時間を独占できると思ってんの? 甘いよ、夏生』
「じゃあさっさと望みの額を言え。お前と遊んでる暇はない」
幼なじみが欲の皮を突っ張らせるのは、何も今に始まった事じゃない。夏生は大した動揺も見せず、冷静に切り返した。だが美和子の要求は夏生の想像の斜め上を行くものだった。
『日給プラス、薫君一日レンタル権』
「――――は?」
(今なんて言った?)
『だーかーらー、一万円とアンタの兄貴を一日レンタルで手を打つって言ってんの。安いもんでしょ。この慈善的精神に感謝して欲しいくらいだわ』
ますます訳のわからない事を言い出した幼なじみに、夏生はさすがに右手を止めた。
「……どうしてそこで兄貴が出てくるんだ?」
『今更そんな事訊くなんてアンタどんだけ野暮なのよ。一人で悶々とエロマンガばっかり描いてるから、人の心の機微のわからない鈍感童貞野郎になっちゃうんでしょうが』
こちらがお願いする立場とはいえ、いくらなんでも言われ過ぎだろう。心の機微のわからない鈍感はどっちだ。夏生は内心で盛大に舌打ちをすると、喉まで出かかっていた言葉をすんでのところで呑み込み、努めて冷静に切り返した。
「金なら倍出す。だから兄貴の事は諦めろ」
『なんでもお金でケリつけようなんて考え方はどうかと思うわよ、夏生』
分不相応なブランド品を買うために、アルバイトを三つも掛け持ちしている女にだけは言われたくない台詞だ。
『一万円と薫くん。どっちが欠けてもあたしは手伝わないからね。原稿落としてブログでもBBSでもなんでも炎上しちゃえばいいのよ』
さすがはおむつ時代からの付き合いだけあって、美和子は夏生の事を知り尽くしていた。だがこれ以上無益な言い争いを続けている暇はない。とりあえず後の事は棚上げで、夏生は目先の問題から片づける事にした。
「――わかった。お前の言う通りにする。とにかく今すぐ部屋に来い。窓は開いてるから勝手に入れ。それとインクが飛んでもいい格好で来いよ。着替えに戻る時間はないからな」
『了解。どうせパジャマだし、このまま行くわ』
そうと決まれば美和子の行動は早かった。通話が切れたとほぼ同時にガラリと窓が開き、スウェット姿にひっつめ頭の幼なじみが現れたかと思うと、持参したマイ手袋をはめながら「どこからやればいいの?」と訊いてくる。毎度の事ながら、この時ばかりは説明いらずの気安さがありがたい。
「ペン入れができてる分のベタを頼む。それが終わったらこっちのゴムかけをしてくれ」
「わかった。デッドは?」
「八時。だが今のペースじゃ完全に間に合わない」
「じゃあいつもよりもペース上げていくわ」
そう言うと縒れたトレーナーの袖をまくり、美和子は早速ベタ塗りに取りかかった。高校生の頃から夏生に仕込まれているだけあって手は早く、その上仕上がりは丁寧だ。この性格じゃなければ、この先もずっと自分の手伝いをお願いしたいくらいだった。
カリカリペタペタと、作業する微かな音が響く六畳間で、二人は黙々と、だが一心不乱に手を動かす。
途中、原稿とサイドテーブルの上のデジタル時計を見比べて、夏生は何度も音を上げそうになった。その度に向かい側で胡坐をかいて作業する美和子が「ブログ炎上、サイト閉鎖」と念仏のように唱え、萎えそうになる気持ちを奮い立たせてくれる。
「――今、何時何分だ?」
もうデジタル時計を確認する余裕すらなくなっていた夏生は、自分より幾分冷静な美和子に現在の時刻を尋ねた。
「七時四十七分。こっちはもう全部仕上げたよ。夏生は?」
「かごめの制服のトーンを貼ったら上がりだ」
「じゃあ原稿の最終チェックしておく。封筒ある?」
無言で勉強机を指差すと、美和子は勝手知ったる様子で引き出しを漁りだした。残り三分、二分……一分――
「よし! できた!」
「早くそれ貸して! 今から原チャリで印刷屋行ってくる!」
「悪いな、任せる」
夏生は完成したマンガ原稿を美和子に手渡すと、そのまま後ろに倒れ込み、床に大の字で寝転がる。目を閉じると、眼球の奥の辺りがズキズキと痛んだ。
「夏生はちょっとでも寝ときな。今日も学校でしょ」
そういう自分だって大学の講義があるはずだ。講義が終わればアルバイトにも行かなければならない。それなのに美和子は夏生の体を案じてくれる。デリカシーの欠片もない女だと思っていたが、意外に優しいところもあったようだ。
「本当に助かった。みわ、ありがとうな。焦らないでいいから気をつけて行ってくれ」
せめてもの恩返しにと、居住まいを正して真摯に礼を言う。すると美和子は一切表情を変える事なく「礼なんていらないから、日給と薫くんの件、くれぐれも頼んだわよ」とだけ言い残し、トーンの削りカスを巻き上げながら、一陣の風のように部屋を出て行ってしまった。
「くそ、覚えてやがったか……」
もしかしたら忘れてくれているかもなどと淡い期待を抱いたのだが、やはり甘かった。
「だいたい、よりにもよってなんであの人なんだ」
二つ上の兄は、今や夏生の最も苦手とする人物だ。
現役で国立大学の薬学部に入り、人当たりのいい性格と義母によく似た華やかな容姿のせいで、誰からも好かれている。大学でも人気があるらしく、家の前で見かける女の子はいつも違う顔だ。そんなところも自分とは正反対で、ますます気後れしてしまう。
出会った頃はまだお互いに子供だった事もあって、夏生も優しく優秀な兄を心から慕い、心酔していた。だが中学、高校と進むにつれ、徐々に話をする機会が減り、今では滅多に口を利かないただの同居人と化している。
薫は薫で、最初こそ大人しく内向的な弟に何かと構ってくれていたが、やがてそれも面倒になったのか、よほどの事がない限り話しかけてはこない。
ただでさえろくに会話もしない兄弟なのに、いきなり幼なじみのために一日空けておいてくれなどと、どんな顔をして頼めばいいのか。
「どうしろってんだよ……」
一難去って、また一難。
墨汁で汚れた手のひらで顔を覆い、夏生は再び後ろに倒れ込む。しばらく一人で唸っていると、床にほっぽっていた携帯電話が振動し、メールの受信を伝えた。送信主は美和子で、『無事入稿完了』という、たった六文字の実に愛想のないメールだった。
(助かった……けど、ある意味助かってねえ)
心に重石を抱えたまま、夏生はジンと痺れる瞼を閉じた。

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