8人が本棚に入れています
本棚に追加
第一話
バイトで、珍しくミスをして怒られてしまった。
想像以上に堪えている自分がいて、最寄り駅まで一直線に向かっていたはずの足は公園に寄り道していた。通り道にあるとはいえ、立ち寄ろうという意識がなければ来ない場所だ。
そもそも、夜はあまり好きではない。小学生の時に、コンビニに出かけたまま帰ってこない父親を毎夜、自宅の前で待っていた過去があるせいでいい印象がない。
そう、今日のようにさんさんと輝く満月の日もあった。
じわりと蘇りそうな重い感情を振り払うように、一度目を閉じる。この公園は海沿いにあるから、特に夜景が素晴らしかったはずだ。綺麗な景色は昼夜問わず嫌いじゃない。それを眺めていればきっと心も洗われるに違いない。
公園内で一番広そうな大通りを足早に抜けて、海に面した散歩道へ向かう。潮の香りが一段と強くなってきた。
やがて視界が開けた瞬間、思わず足が止まる。
「うわ……これは想像以上だな……」
柵の向こうで様々な人工光が並んでいる。水面に帯状となってぼんやり映り込んでいるものもあり、また違って見えて面白い。今日は風があるから若干ゆらゆらしているが、もしなかったら鏡のようになるのだろうか。
「月もあったらもっとよさそう」
ネットで海と月がセットになった風景写真に遭遇するたび、あんな神秘的な瞬間に出会いたいといつも思う。
少し歩いてみることにした。海風がとても心地いい。ようやく猛暑続きの日々から脱したかと思えば、次の季節がすぐそこまでやってきている。
「あ、こっち行き止まりか……っ!?」
方向転換をした時だった。道に沿う形で一つずつ設置されているベンチに、何かがいた。
ベンチを囲むように緑が植えられているので少しわかりにくかったが、人影だったと思う。
(い、いや、人がいてもおかしくないよね……)
絶対に怪談の類いじゃないと言い聞かせて、正体を確かめるべく改めて向き直る。
――確かに、人だった。人、だと思う。
曖昧になってしまったのは、一言で言うなら「綺麗」だったから。
視界の先のその人は、肩まで伸びた、癖の強い茶髪を片耳にかけながら首を傾げた。スウェットのような黒の上着にジーンズというシンプルすぎる服装なのに、端正な顔の効果でおしゃれに見える。
「あの、何か用ですか?」
改めて問いかけられて、我に返る。慌てて頭を下げた。
「す、すみません! お兄さんがすごく綺麗で、見とれちゃったんです」
言い終わってから、頭を上げたくないくらい恥ずかしさがこみ上げた。何を馬鹿正直に告白しているんだ!
いっそ笑ってくれと願った瞬間、小さく吹き出す声が聞こえた。
「あ、ありがとう。あんなにはっきり言われたら、そう返すしかないっていうか」
願いが叶ってありがたいが、落ち着く時間が欲しい。
よほどツボに入ったのか、口元に拳を当てながらくつくつと笑い続けている。さっきはどこか人間味がない印象だったけれど、今は違う。
「思いっきり笑っちゃってごめんね。……久しぶりに、こんなに笑ったよ」
そう言いながら何かを堪えるように、双眸を少し細める。
「あの、もしかしてお兄さんも嫌なことがあったんですか?」
気になると思った時には、表に出ていた。怒られた自分の姿と重なって見えて、同情心が生まれてしまった。
唇を一文字に近い形に戻した彼は、薄めの眉を困ったように寄せる。
「それって、ナンパのつもり?」
「ち、違います! ほんとにそう思ったんです。私もそうだから」
下がっている目尻を少しだけ持ち上げた彼に、バイト先でいつもは絶対しないミスをしてしまったから、綺麗な景色を見て癒やされたかったと続ける。
「そうだなぁ……癒やされたかった、ってのは合ってるかな」
また、堪えるような顔つきになる。
「それでも、君すごいね。鋭いねって言われない?」
「思ったこと口に出しすぎ、だとは」
吹き出したということは、出会ってすぐのお兄さんにも充分理解されたようだ。……優しい人でよかった。
「仕事柄いろんな人と会うけど、君みたいな人は初めて会ったかも。なんか、元気出た」
改めて向けられた笑顔は立派な証明になってはいたが、恐れ多すぎる。
「ほ、褒めすぎでは……むしろ邪魔しちゃってましたし」
「ううん、本当に癒やされたよ。ありがとう」
素直にお礼を、しかもイケメンから告げられるなんてそうそうない経験だから、無駄に慌ててしまう。
「というか、僕も君の邪魔をしちゃってたんじゃない?」
「いえ、私もいつの間にかすっきりしてました。綺麗なお兄さんと話ができたおかげです」
「またそんなことを……」
冗談抜きで、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。この人との出会いは、そんな願いを掬い上げてくれた結果だったのだと思えた。
特別な出会い。運命。そんな言葉が頭をよぎる。
ふと、ショルダーバッグに入れているスマホが震えた。スリープを解除して、思わず声を上げる。
「やば、もうこんな時間!」
相当話し込んでいたらしい。明日は一限から授業があるから、あまり遅くなるときつい。
「すみません、私帰ります。いろいろ、ありがとうございました」
一抹の寂しさを覚えながらも踵を返す。
――本当に、このまま赤の他人同士に戻ってもいいの?
「待って。君さえよかったら、また話したいな。……ダメかな?」
足が止まった。止めざるを得なかった。
振り返った先のお兄さんは、不安そうにこちらを見つめていた。
「ダメじゃ、ないです」
湧き上がる歓喜を必死に堪える。声が震えそうだった。
「ありがとう。……本当に、君に出会えてよかった」
お礼を言いたいのは自分こそだ。
嫌いだった夜が、この出会いのおかげで少し好きになれたのだから。
最初のコメントを投稿しよう!