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第三話
先週からいつもの場所に向かう今までずっと、強まる不安と戦ってきた。友達やバイト先で何度心配されたかわからない。
先週、薫はいなかった。
終電に間に合うぎりぎりまで粘ってみても、主に女性が何人か通っただけで一切姿を見せなかった。
仕事が忙しいだけ。社会人なのだからそういうこともあるに決まっている。
そう言い聞かせようとしても、浮かぶのは余計な欲を出してしまった後悔ばかり。
「着いちゃった……」
ベンチが近づいてくる。いっそ、もう会いたくない、という最悪の展開さえ迎えなければいい。会ったらいの一番に頭を下げよう。
いた。髪は結ばれ、服装もボタン付きのシャツという異なる格好の、薫が座っている。
「あ、あの、薫さ」
「絢奈ちゃん、ごめん」
逆に頭を下げられた。
「先週は仕事で来れなかったんだ。急に決まったからどうにもできなくて」
顔を上げた薫は思いきり眉尻を下げていた。柔和な印象を通り越して、自信のない性格のように映る。
「だ、大丈夫ですから。そんな、気に」
しないで、と続けられない。一度、緩く唇を噛む。
「……仕事で、安心しました。もう、会えなくなるかもって思ってたから」
「どういうこと?」
本気で訝しんでいる。薫の中では大した問題ではなかったとわかって、猛烈に恥ずかしくなる。
どうやってかわそうか必死に考えていると、背後に人の気配を感じた。そちらに気を取られた瞬間、身体がぐらりと傾いだ。
目の前が黒で染まる。背中にぬくもりを感じて、薫に抱きしめられているのだと初めて知った。
「な、なんで」
「ごめん、少し大人しくしてて」
息の当たる箇所が熱い。たまらず、固く目を閉じた。背後で悲鳴みたいなものが聞こえたがそれどころではない。
考えてみれば、男の人から抱きしめられた経験なんてない。全身が汗ばんできた気がするし、変にふわふわもする。五感すべてが薫に集中しているようだ。
(緊張しすぎて……もう、意味わかんない……)
今すぐ遠くに逃げて、いろんなところを落ち着けてから戻りたい。「大丈夫?」なんて突っ込まれたらどうしよう。
「……もう、行ったかな。ごめんね、いきなり」
とにかく早く展開が変わって欲しい。必死の願いがようやく届いた。
「い、いえ」
超密着の時間は終わりを迎えたが、身体の調子は全く戻らない。うかつに顔を上げられなくて、どう対処すればいいのか途方にくれる。
「絢奈ちゃん? 大丈夫?」
最悪の展開を迎えてしまった。どうしよう、どう言い訳しよう。
「っひ……!」
頭の中がパニックになっているせいで、肩に触れられた瞬間、短い悲鳴を上げてしまった。
しかも、後ずさるという最悪の、おまけつき。
「ご、ごめんなさ……」
謝りたいのに、うまく言葉が紡げない。ぼんやり浮かび上がる薫の顔が若干傷ついているように見えて、今すぐ頭を下げたいのに、できない。
「いや、謝るのは僕だよ。説明もなしにあんなことしちゃって、本当にごめん。怖かったよね」
違うのに、ただびっくりしただけで本当に嫌な気持ちはなかったのに。むしろ変に緊張するばかりで、熱が出たみたいで。
無意識に首を振っていた。声の出し方を忘れてしまったように、苦しい。
「絢奈、ちゃん?」
間近でそっと名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。
街灯に淡く照らされた顔は、今まで一番整っていた。不思議と、きらきら輝いているようにも見える。
恥ずかしさは消えないのに、魅入られたようにもっと見つめていたいと願う自分が、いつの間にか頭の片隅に存在していた。
薫の双眸がわずかに細まった。ゆっくり持ち上がった腕がこちらに伸ばされるのを、今度は黙って見守る。
頭を一度、撫でられた。そのまま肩に、ぬくもりが移動する。
心臓が激しく高鳴り始めた。さっき逃げたことが信じられないほど、嬉しさを覚えている。
――もしかして、これって。
久しく忘れていた。中学生の頃先輩に一度抱いたきり、隅に追いやられていた感情。
こんな、噴火するように急に湧き上がってくるなんて。
周りの時間が一気に流れ込んできた。黙って見つめ合えていたのが不思議でならない。
「あ、あの、私、今日は帰ります!」
それだけを告げるのが精一杯だった。
これ以上、想い人となってしまった薫の前に立っていられなかった。
それがきっかけなのか、事実は本人にしかわからない。
薫は、公園に一切姿を見せなくなった。
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