おでん屋『すみれ』

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おでん屋『すみれ』

―――――――――― 三年ほど前のことです。 医師に「奇病ですね」と言われました。 元号が変わったいまどきおかしな表現をすると私は笑ったんですが、自分の病状……もし治療をしなければどうなるかの説明を受けたら、確かにそうだと思いました。 「このグラフを見てください」 右にいくにつれて、急激に跳ね上がるグラフでした。 「下の目盛りが年齢で、上の目盛りが……消えていく言語と思考の量、と言いましても、なにもできない人間になるのではなくて……『表に出さなくなる』だけなんです。患者さんはきちんと伝えたいことがある、しかしめんどうくさくなるというか外部とのやり取りを遮断するようになります。自ら、蓋をした貝のようになるのです」 医師が、グラフを指でなぞっていきました。 「このままだと、だいたい六十歳から六十五歳になればあなたも貝のようになります」 「……まだ時間がある。あと二十五年くらいじゃないですか」 「この病はね、徐々に、徐々に何も伝えられなくなります。いまから入院すれば多少意思疎通を図るのが大変なだけで済みます」 私は医師の治療には同意できませんでした。 入院すれば会社……地方の出版社で編集者を務めています……そこを長く休みます。出世競争から降りるということです。三十五を過ぎたばかりの私には酷な選択でした。 それが、きっかけでした。 会社が終わると、すすきののあらゆる店に入りました。 探せば安いところもあるんですよ。会社から歩いて、地下鉄の駅からタクシーに乗り、「予算これくらいで飲めるところ」と言えばいいんですから。運転手に聞けば、もっと吹っ切れるサービスも紹介してくれたでしょう。私はしませんでした。身体同士の付き合いでは、どうしたって自分をさらけ出すことになりそうでした。 喧騒にまみれた居酒屋のすみっこで酒を飲んでいるだけでよかったんです。私もなにかを話している気分になれました。 それだけでよかったんです。 月明かりが綺麗な夜でした。 飲み代とタクシー代が量んだ私は、すすきのはだいたい周り尽くしたと、狸小路商店街まで歩きました。 満月は人の気分を変えると言いますね。私は一度も入ったことのない商店街の一角にある扉を開けました。 従業員の通り道かと思ったんですが、通路の先に一軒のおでん屋がありました。 名前は『すみれ』です。小筆で書いた店名の字がやけに愛らしくて、きっと美人の女将がいるに違いないと、私は『すみれ』の引き戸を開けました。 「あら、いらっしゃい。今夜のいちばんさんはお早いこと」 藍染の着物を着た、額の広い女将が現れました。富士額ではないですね。やや突き出た大きなおでこでした。 丸みのある額のおかげで若く見えるけれど、店を営んでいるから私と同じくらいの歳か、四十に手が届きそうな年齢でしょう。 「おでんはなんにしますか?」 「えっと……大根……いや、ちくわ……いや、がんも、かな……」 咄嗟に答えられませんでした。 数あるおでん種から食べたいものを少しだけ伝えるのは難しいですね。 「おまかせにしますか?」 「はい、それで」 「えっと……大根、ちくわ、がんもは入れましょう。それから……じゃがいも、昆布……と、餅は大丈夫?」 「え、餅?」 「餅入り巾着はいかがなさいます?」 「いただきます」 「それでは。はい、いちばんさん、おまかせひとつ」 カウンターに座りました。私はおでんが盛られた皿を見て、もうひとつ食べたいものが出てきました。 「あの、ご飯はないでしょうか……おにぎりでもいいんです」 「ございますよ。いちばんさん、ご飯一膳」 私の家では、夕食でおでんを食べるときには炊き立てのご飯がありました。 大根を割り、茶碗に乗せてご飯とともに食べました。熱い熱いと思いながら、ほおばりました。 おでん出汁はあつあつのご飯によく合います。 「いちばんさんって言葉、うれしいですね」 「うちは、いちばん早く来たお客さんは、いちばんさんとお呼びします」 「私……いちばんになったことがなくて。……ああ、一回はチャンスがありました。小学校のマラソン大会です。いちばんでゴールしたのに、順位表はすぐにもらえずずっと整列させられました。そのとき、意地の悪い級友に言われました。『おまえは俺の後ろに並べ』と。私が彼より早かったのが許せなかったんでしょう。後ろに入ったら、今度は『横入りするな』と次々に言われて、言い返せない私はどんどん下がっていき……」 苦い思い出を吐いていました。 酒を飲むいつもなら、言えないことでした。 「どこにでもいるんじゃない? 自分がいちばんにならないと納得がいかなかい人ってのは。いちばん獲れたら、いちばん幸せになれるって思ってるんだろうねえ。じゃあ、いちばん早くあの世に逝けばうれしいのかいって言いたくなるよ。あの世に逝ったらなにも言えない。……なにも言えなくなるというのは、つらいのに……」 「……なにも、言えなくなる……」 「いちばんさんには昔話をしようか。今夜来てくれたお礼だよ。三十になる手前でね、私、顔のいい男を捕まえたんだよ。こりゃあ、彼の元に嫁ぐだろうなあ、友達より先にいちばんに嫁ぐだろうなって思ったんだけどねえ。相手の家を訪ねに行ってすぐに駄目になってしまった。婚約はしていなかったから、ただの男女の別れになった。四年も付き合ったのに。それでこの世に嫌気がさしたんだろうかねえ、私。しゃべれなくなったんだよ。突然、なにも、なんにも……」 私は箸を止めて、女将の話を聴きました。 ふたりのあいだには、おでんの湯気だけがありました。 「父にも母にも、『あのね、あのね』しか言えなかった。結局治ったけど、どうなることかと不安だった。いちばんに結婚したいって慌てて、その気のない男についていって痛い目に遭っちゃった。それから思ったんだ。いちばんは、その前に誰もいないから、たまたまのいちばん。自慢することじゃないってね。でも、いちばんさん。あなたは……」 女将は店の奥に行きました。しばらく経つと、短冊を手にして戻ってきました。 短冊を私に手渡してくれました。すみれの絵が描かれている短冊には、小筆でこうありました。 『いちばんさん いちばんおめでとう すみれ』 「いちばんさんは、ちゃんと自分の力でいちばんになったんだよ。誰がなんと言おうと、いちばんさんがあのときの本物のいちばんだ。慰めになるかねえ、こんなんで」 「ありがとう、ありがとうございます!」 その短冊は、入院ベッド横にある机の引き出しに入っています。縦長の短冊なので、無理に入れようとして、四隅が折れてしまいました。それでも、そばに置いておきたかったんです。 もう私にはわかっています。 会社でいちばんになれないということを。いちばんになれなくてもいいということを。 治療を終えたら、あのおでん屋に行きます。 いちばんさんでもいちばんさんでなくても、きっと、あのときと同じように、おでんと女将があたたかく迎えてくれるはずだと思うから……。 ――――――――――
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