狐に嫁入り

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 雨と云うものは、もっと五月蠅いものだと思っていた。  御簾のなか、火鉢のそばで両の手をすり合わせながら聞く水音は、ざあざあ、ざあざあとやかましいばかりで、少女にはけして好もしいものではなかったから、特にそう思う。  どろどろと鳴るおそろしげな音は、雷神の鳴らす太鼓の音だと聞いたことがあった。  ――おひいさま。そんなにお外ばかり見ていては、もののけに攫われてしまいます。  そう言って、少女を邸の奥へ抱いて戻した女性は、たしか淡路と呼ばれていた。  ほかにも少女の周りにひとはいたけれど、たさんいすぎて覚えきれなかったから、少女はなにかあるたびに、淡路を呼んだ。  ――あわじ、あわじ。  ――はい、おひいさま、どうしましたか?  ――あまいものがたべたいの。  ――はい、はい。さきほど若狭さんが粉熟を作っていましたから、すこしもらってまいりますね。  ――くりのがいいわ。  ――ええ、もちろんでございます。  甘い菓子をねだれば、四半刻もせずに少女の前にもたらされるそれらを、特別なものだと思いもしなかった。  ただ、少女にとって、粉熟や餅といった甘いものや、螺鈿細工の美しい鏡箱、そして美しい音を奏でる琴は、当たり前に与えられるものでしかなく、心の底から満ちることはけしてありはしなかった。  ――おひいさま、おひいさま。  淡路の声が聞こえる気がする。  ――遠く、遠く、しとしとと軽やかなほどに薄く響く雨音の向こう、くぐもって、どこかに怪我でもしたかのように、痛々しい声で淡路がなにか叫んでいる。  よく聞こうとして耳をすまして、しかし、ふいに少女の聴覚は遮られた。  淡路の声が遠ざかる。遠ざかる。小さくなって、そしてふつんと消えてしまった。  少女はじしんの耳をふさいだそのひとの、斜め上にある顔を振り仰いだ。 「……だんなさま?」 「そなたには必要のないことだ」 「はあい」  しとりしとり、雨が降る。日の光を反射して、まぶしくも切なくきらめく晴れ間の雨の中、少女は花婿に手を取られ、まるで雪花のつぶのような滴のなかで、ゆっくりと歩みを進めていく。 「だんなさま、わたし、なんだかおかしいの」 「そうか」 「はい、おなか一杯に水菓子を食べたみたい」 「それが、満ちていると云うことだ」 「そう……そうなの……」  不思議そうに胸を押さえる少女に、少女の手を引く人影は笑った。 「そなたが私を好もしく思っているから、そうなるのだ」  心から嬉しそうに、わずかな吐息とともに笑う人影を見上げると、少女もなんだか嬉しくなってしまった。 「だんなさまも、わたしのことが好き?好もしいと思っていらっしゃる?」 「勿論」  短いことのはに、胸の奥、ずっとふかいところにあるものをすべて乗せたようなひとこと。  ああ――ああ。口の端があがってゆく。  目が細まって、少女の頬は真っ赤になった。  知らず微笑んだ。少女に、人影は一瞬目をみはったあと、満足げに笑み、そういえば、と続けた。 「そなたの名を聞いておらなんだな」 「わたし?おひいさまよ」 「そうではない。……そうか、知らぬのか」  だんなさまはなにを言うのだろう、そう少女が首を傾げると、考えるように空を見上げていた少女の夫は、静かに口を開いた。 「雨姫、そう、そなたは今、このときより雨姫だ」 「あめ……すてき、わたし、この美しいものになるのね」 「そなたはこれらより美しい。私の愛い子――雨姫」  握った手に力がこもる。少女――雨姫は、邸以外の世界を知らなかった。自分にはべる女房の名前も、自分の名前も身分も、何も知らなかった。  だから、たとえば、自分の夫の手が、毛むくじゃらでも、その口が、ひとのことばを使っていなくとも、それが異常だということに、気付きもしないのだ。  ただ、雨姫にとってたいせつなことは、自分がこの夫を好もしいと思っていること。そして、今、じしんが満ち足りているということだけだった。  東宮の添い伏に内定していた左府の大姫が攫われたと、その知らせが人の口に上ると同時に、京の都は騒然となった。  かぐや姫に劣らぬほどの美しい姫君は、けして邸からでることがなく、厳重な警備の元、大切に育まれてきたのだ。  それがあるとき、まるで景色に溶けるように消えてしまった。  うわさ好きの人々はいう。駆け落ちでもしたのじゃないかと。  ただひとり、姫君の乳兄弟たる女房だけは、姫君が狐に攫われたのだと言い張っていた。  あやかしのもとから助け出さねばと。  しかし、左府から、大姫の代わりに中の君を添い伏に、という決定がでたことで、やがて、失踪した姫君のことなど人のうわさにも上らなくなった。  今は昔、狐の花嫁になった、雨降りの姫君の話。
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