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一
汗がじっとりと肌にべたつくような梅雨の黄昏時、一人の男が河原で浮かない顔をして川を眺めている。
赤みを帯びた川面の煌めきに男は幾分癒されるのを感じていた。
すると、突然、背後から何者かに声を掛けられた。
「おい!」
男はぎくりとして振り向くと、彼に向かってぱちりとフラッシュがたかれた。
写真を撮った者は一瞬の内に跡形もなく消え去ってしまった。
何なんだ?今のは?
彼は暫くの間、ぽかんとなってしまったが、やがて悔しくなり恥辱に苛まれた
人の不幸を喜んで写真に撮り、面白半分にネットにアップする、その類ではないかと彼は思ったのだ。
そう思う程、彼は不遇に喘いでいた。
名を寿旬と言っていい女と付き合えることを願ってやまないしがない労働者だ。
若い内はそんな夢を見ることも出来るものだ。
まあ、会うだけなら俺にも出来るというので寿旬は初夏の或る休日なぞもレースクイーンに会おうと朝早くから観戦チケットの前売り券を携えて車で30分もかからない所にあるサーキットへ出かけた。
着いてみると、朝チケット売り場前は既にピットウォークパスを購入しようとする人で賑わい長蛇の列が出来ていた。
販売枚数には限りがあるからもっと早く来ればよかったと寿旬は列に並びながら焦燥感に駆られるのだった。
それでも間に合っていたので首尾よく購入できた寿旬は、サポートレースをやっている最中にピットウォーク集合場所へ行ってお目当てのレースクイーンに会えるよう満を持した。
やがて予想通り大混雑になったが、寿旬はピットウォーク開始時間になってゲートが開くと、係員にピットウォークパスを見せ、いの一番で入場することが出来た。
各レーシングチームが様々なノベルディグッズを配布している。
定番はステッカーとウチワ。
そんなグッズはどうでもいいのだ。
寿旬はお目当てのレースクイーンがいるパドックへ急いだ。
その名は加瀬圭子。
身長165センチバスト90ウェスト57ヒップ88。
非の打ち所がなく完璧と言っても過言ではない超ナイスバディだ。
おまけにルックスがもろ自分好みなので寿旬はもう涎もんで探し回るのだが、元々何をやるにもどん臭い質で而も方向音痴で要領が悪いので中々見つからない。
その間、寿旬は各レーシングチームのパドックを彩るセクシーなコスチュームを身に纏ったレースクイーンを始め色とりどりのレーシングカーやロゴマークを目にする中、レーシングドライバーのみならずチーム代表やチーム監督やチーフエンジニアそれにメカニックたちもかっこ良く躍動しているのを目の当たりにしたので劣等感を抱きつつ時折ため息が出るのだった。
そうこうして何とかかんとかやっとこさ目的のパドックエリアに来ると、ファンの撮影に応じている加瀬圭子の方へ群衆の間を縫って汗をかきかき近づいて行った。
ほとんどの者が望遠レンズ機能付きのデジタル一眼レフカメラで撮影する中、寿旬のは凡庸な安物のデジカメだから上手く撮れる筈がない。
このことからも間抜けで貧乏なのが分かる。
風采も冴えない・・・
そう、前述したとおり寿旬はしがない労働者なのだ。
流石に自分の間抜けさ加減に気づいた寿旬は、群衆の中から抜け出して通路沿いのネットフェンスに寄り掛かった。
「はあ、人いきれする所は嫌だ。何だか恥ずかしいし疲れる・・・」
人ごみに煽られる羞恥心と徒労感が寿旬を襲った。
「嗚呼、サイン貰いたいけど、無理っぽいなあ・・・」
諦めが早いのも寿旬の特徴だった。
俗に言う駄目人間の特徴と言っても良いかもしれない。
「あーあ、いい女がここにはそこら中にいるのに俺は誰にも相手にされないんだ・・・」
すっかり辛気臭くなった寿旬のところへ一人の男が颯爽と現れた。
ラフだが洒落っ気のある洗練されたクールビズスーツ姿だ。
背が高くて見るからにイケてる。おまけにトリッキーな出来る男といった感じで体全体から強烈なオーラを漂わせている。
寿旬は半端でなく劣等感に苛まれながら威圧された。
「よう、どうしたんだい?こんな所でいじけていては何もできない儘、ピットウォークが終わっちまうぜ」
「あ、あの、あなたは何者なんですか?」
「ああ、初対面で何も名乗らずに乱暴な言葉を使って失礼しました。実は私、加瀬圭子が所属する芸能事務所の社長なんです」
「えっ!」
ま、マジで?
選りによって加瀬圭子の・・・
而もそんな人が選りによって俺に声をかけるなんて・・・
突然のことで寿旬は訳が分からなくなったが、希望の光を目の前の男に見たような気がした。
「これは私の名刺です」
寿旬はそれを受け取って見ると、確かに○○芸能事務所代表取締役社長とある。
それで寿旬は半信半疑な状態から脱し信じる気になった。
「信じてもらえましたか?」
「は、はい」
「ところで、さっき、あなた、加瀬圭子の写真を撮ってましたよね」
「ええ」
「その時にね、加瀬圭子があなたを秘かに見初めたんですよ」
「えー!」
寿旬に驚く暇さえ与えることなく男は間髪容れず言った。
「あの通り彼女は忙しい身でしてね、それで私、彼女に頼まれまして、はい、これ」
差し出されたメモ用紙を寿旬は受け取って見ると、住所や電話番号やメールアドレス等加瀬圭子に関する個人情報が逐一記入されてあった。
「是非とも加瀬圭子の宅を訪ねてやってください。きっと歓待されますよ。それどころか加瀬圭子の彼氏になれますよ」
正に降って湧いたような千載一遇の大チャンス!
こんな美味い話が果たしてこの世にあるのだろうか?
第一、加瀬圭子が自分をいつ見ていたのだろう・・・
俄かにはとても信じがたかったが、寿旬は嘘でも夢でも幻でも何でもいい、訪ねるしかないと思ってチャレンジする気になった。
「ま、訳が分かりませんが、兎に角、訪ねてみます」
「そうですか、では、今度の水曜日に訪ねてみてください。本人はずっと独りで待ってるそうですから」
「はあ、分かりました」
「では、加瀬圭子にあなたのお名前を伝えないといけないですからフルネームでお願いします」
「あの、寿旬です」
「姓が寿(ことぶき)と書いて寿で名が旬な物とか言う時に使うあの旬ですか?」
とししゅんと聞いたら普通あの杜子春を思い浮かべるものだ。
なのによく分かるものだと寿旬は不思議がりながら答えた。
「はい、ずばりです」
「めでたい名ですね。分かりました。では失礼します」
そう言うと、男はパドックの方へすたすたと去って行った。
唐突に来て唐突に去る。
何なんだろう、あの男。
寿旬は狐につままれたように呆気に取られ、不可解になった。
我が子のことを頼んでいるようでもあった。いや、親がこんなことを頼むことはまずないか・・・
そう思うと、寿旬は益々不可解になった。
しかし、これは現実に起きた交渉だ。
そう思うと、今度の水曜日が楽しみになって来た。
けれども、水曜日、俺は仕事だ。
仕事帰りじゃ汗臭いしなあ。
風呂入って格好整えて床屋行ってなんてやってたら時間がないしなあ。
よし、今度の水曜は仮病使ってズル休みしよ。
そう決心した寿旬は、再び加瀬圭子を観賞しに行くのだった。
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