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夫は、実家の近所に住む〝憧れのお兄ちゃん〟だった。
幼稚園児だった私には、高校の制服に身を包んで颯爽と歩く彼が、この上なく格好良く見えたものだ。
公園で遊んだ帰りにたまたまその姿を見かけて、目が合うとにっこりと笑い返してくれた。その笑顔があまりにも印象的で、同じ園に通う男の子たちなんて、それこそ幼稚な子供にしか見えていなかった……微笑ましい初恋の記憶が蘇る。
そんな彼もやがて大学に進学し、しばらく顔を見ない日が続いた。次に顔を合わせたときには、彼はある女性と結婚した後だった。
ショックではなかったと言ったら嘘になる。けれど、大きなお腹を抱えたその女性はとても綺麗で、彼に寄り添って歩く姿は誰がどう見てもお似合いだった。
失恋というほど大袈裟なものでは、多分なかった。
その後も何度か顔を合わせる機会はあったものの、彼の奥さんに対して不穏な感情を抱いたわけでもなんでもない。ほのかに抱いていた憧れの気持ちに、ほんの少しの苦さが混ざり込んで……それだけだ。
月日は流れ、やがて私は高校を卒業し、県外の会社に就職した。
実家を離れてひとり暮らしをしていた私は、ある年、盆休みに帰省したときに偶然彼と再会した。
『離婚したんだ』
苦笑気味に呟いた彼の言葉に、精神的にまだまだ子供だった私は簡単に囚われ、溺れた。
逢瀬を繰り返し、告げられたプロポーズ。舞い上がっていた私は、それを運命と思い込み、迷わず彼と結婚する道を選んだ。
翌月には退職し、地元に戻ってきて入籍手続きを済ませた。新しい仕事には就かなくていいと言われ、それも承諾した。訝しくさえ思わなかった。『家で自分の帰りを待っていてほしいから』と告げられ、浮かれきっていたからだ。
彼には連れ子がいた。ああ、あのとき奥さんのお腹にいた……そう理解するまで少し時間がかかった。
高校に入学したばかりだという彼の息子、翼くんは、私が幼い頃によく目にしていた夫とそっくりの顔をしていた。
当初、翼くんは私と口を利こうとしなかった。
学校の規則で明らかに許されていなそうな、金に近い明るい色の髪。ジャラジャラと耳を覆う派手なピアス。それまでの私は、その手の容姿をしている人と接点を持ったことがほとんどなかった。最初の頃はどうしても近寄りがたく、話をするにも毎回緊張していた。
加えて、翼くんは元から寡黙なタイプだ。会話はほとんど成立しなかった。
それが崩れたのは、翼くんに対する夫の視線の冷たさに気づいたときだ。
厭わしげに息子を眺める夫と、それに対して反応を見せず無関心を貫く翼くん。不仲というよりは、互いに相手への関心がほとんどない――そんな感じだった。
そのことが寂しく感じられ、以降、私は翼くんへ積極的に話しかけるようになった。
きっと、私も寂しかったのだと思う。結婚から幾月も経たないうち、夫がほとんど家に戻らなくなっていたからだ。
仕事が忙しいことは結婚前から知っていたけれど、二日に一度、三日に一度、一週間に一度と、夫が家へ帰宅する回数は次第に減っていった。
怖くて訊けなかった。なにをしているのか、どこで寝泊まりしているのか……それを尋ねたら怒らせてしまうのではないか。この女とはやっていけないと思わせてしまうのではないか。そう悩んでは、不穏な考えを振り払うように首を横に振るしかできなかった。
数日ぶりに帰宅したときに、スーツのジャケットから香った女物の香水の匂いにも、気づかないふりを貫いた。
翼くんは、外見や寡黙な態度から想像するよりもずっと素直な子だった。
帰りの遅くなる日が多く、それが心配で、煩わしく思われやしないかとヒヤヒヤしつつ小言じみた言葉をかけたことも一度や二度ではない。しかしそのたび、翼くんは驚いたように私を見返してくるばかりだった。
ある時期を境に、翼くんの髪が落ち着いた色に戻った。耳を覆っていたピアスもすべて外れ、学校からたびたび入っていた無断欠席の連絡もほとんどなくなった。
成績も、私が思っていたより遥かに優秀だったようだ。大学の特待生枠を目指してはどうか、などと学校側から連絡が入ることもあった。
口数は相変わらず少なかったものの、一時期に比べ、帰宅の時間も早くなった。一緒に夕飯を食べて、その後少しお喋りして、それぞれの部屋に戻る――そんな日々が続いた。
……大丈夫。全部、いい方向に向かってる。
そう思うことで、私は、心の底で燻り続ける夫への疑念をごまかし続けていた。
ちょうどその頃、実母が急逝した。
父はすでに他界していたから、母の死によって、実家がらみの親戚関係はそれを機にほとんど途絶えてしまった。
結婚から二年。その葬儀の席にも、夫は喪主を務めるどころか顔を出してすらくれなかった。
確かに遠方へ出張中ではあった。だとしても、こんなときさえ仕事が優先されてしまうのかと、やりきれない思いでいっぱいだった。
慣れない葬儀の準備や手配、不意に襲いかかってくる言いようのない喪失感。そういうものにすぐにも呑み込まれそうなほど不安定に陥っていた、そんな私の傍についていてくれたのは、夫ではなく翼くんだ。
翼くんと夫の不仲の理由を明確に理解したのは、そのときだった。
夫にとって、仕事は家族よりも優先されるべきことなのだろう。翼くんも、私と同じ思いを何度も経験してきたのかもしれない。
それでも私は、夫との結婚が間違いだったなんて、どうしても思いたくなかった。
『葬儀は大丈夫だったか』
『傍にいてやれなくてごめんな』
出張から戻った夫が口にしたその言葉と、どこか私の様子を窺うような視線には、明るく振る舞いつつ笑顔を返した。あれこれ責めるのもなにかが違う気がして、その後もそれまで通りに過ごした。
女性の影がちらついて仕方なかった。それも、ひとりではなく複数の。
出張と言いながら、もしかして今回も――そんな疑惑が、いつまで経っても脳裏にのさばってばかり。けれど気にしたところで仕方がない。元々、夫は女性に注目を浴びやすい人だから。
やがて翼くんは大学に進学し、家を出た。
その頃には随分気さくに話してくれるようになっていた。寂しかったらうちに遊びに来てもいいよ、なんていう冗談を、笑いながら口にしてくる程度には。
この子も知っている。
私の夫が、この子の父親が、家に帰らずなにをしているのか。
『本当に遊びに行っちゃうかもね』
笑ってそう口にした私を、あの日、翼くんは微かに顔を歪めて見つめていた。
月日は流れていく。私ひとりを置き去りにしていくかのようだ。
ひとりきりで過ごす自宅は、あまりに広すぎた。翼くんは頻繁には帰ってこない。毎日ふたりで一緒に夕飯を食べていたことを思い出し、ふっと寂しくなる。そのまま、気が抜けたような笑いを零してしまう。
結婚当初からずっと反対されているけれど、外に出てパートの仕事でも探そうか……そんなことをぼんやりと考えていた矢先だった。
夫の肺に、癌が見つかったという報せを受けたのは。
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