《1》捕まる女

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 ただ泣き続けていた。  声を荒らげるでもなく、ひたすら涙を零し続ける私に、翼くんは一度たりとも腕に込めた力を緩めようとしなかった。  悲しかったから泣く、というものとは少し違う気がした。  これで終わってしまった――そんな喪失感が、胸を黒く覆い尽くしていくばかり。  夫に愛されていると実感することは、結婚からの五年間で数えるほどしかなかった。それでも、最後の最後には、あの人が縋りたいと思えるだけの相手にはなれていたかな……そう思うと嗚咽はますます止まらなくなる。  愛されないなりに、支えにはなれただろうか。それとも、私は最後まで都合の良い女でしかなかったのだろうか。夫が亡くなった以上、その答えはこの先永遠に分からないし、また分かりたいとも思えなかった。  どのくらいの間そうしていたのか。  次第に落ち着きを取り戻し始めた喉の奥から、ようやく言葉が零れた。これ以上、この子に余計な心配をかけるわけにもいかない。 「ありがとう、翼くん。もう大丈夫だよ」  掠れてはいたが、確かに音になっていたはずの私の声に、なぜか反応はなかった。  むしろ、腕に込められた力がさらに強まり、怪訝に思う。 「……翼くん?」 「なにが大丈夫なの」 「え?」  一瞬、空耳かと思った。  強く抱き締められたまま問われ、思わず眉が寄る。翼くんが口にした言葉の意味が分からず、困惑は深まっていく一方だ。 「駄目だよ、一葉さん。俺から離れようと思わないで」 「……え?」 「ねぇ一葉さん。あいつのこと、そんなに泣かなきゃいけないほど好きだった?」 「っ、な……」 「そうだよな? だって小さい頃から好きだったんでしょ? 幼稚園に通ってたときからだっけ」 「つ、翼くん、待って。なに言って……」 「ああ、いいことを教えてあげようか。あいつは一葉さんのこと、愛してなんてなかったよ。ただの一度も」  混乱の渦に呑まれかけていた私の頭が、さらなる濁流に襲われる。  翼くんの言葉に――悪意さえ感じるその刃に、奈落に沈められていくような錯覚に溺れた。 「最期の言葉も……『愛してる』なんて、あれ嘘だよ? あんなのは、死ぬ間際に自分が楽になりたくて吐いただけの戯言(ざれごと)だ」  淡々と語る翼くんの、表情までは見えなかった。  きつく私を抱き寄せたきり、義理の息子は耳元で淡々と毒を吐き続ける。両腕にこもる力は一層強まり、その中に閉じ込められた私はぴくりとも動けない。  身体を締めつける力の強さに、鈍い痛みがゆっくりと脳に届く。締めつけられている身体が痛むのか、それとも、耳を劈くような悲鳴をあげているのは他の場所なのか。私にはもう分からない。 「分かってたんだろ。浮気ばっか、あいつも俺の母親も。ふたりまとめて消えちまえばいいって、俺、ずっと思ってた」 「っ、あ……」  ようやく私の身体を放した翼くんは、間髪入れず、私の頬に両手を添えた。  拘束からの解放にわずかながら安堵したのも束の間、碌に力の入っていない長い指が、緩々と頬を撫でてくる。先刻の抱擁よりも、その触れ方こそがよほど〝逃さない〟と言っているようで、知らぬ間に喉がこくりと音を立てた。 「だから俺、嬉しくて仕方ないんだ、今。あんな奴さっさと死ねばいいって思ってたから」  にっこりと笑った義理の息子の顔は、まるで場にそぐわなかった。  表情と言葉の内容が一致していない。実の父親を亡くし、その葬儀が終わった直後に覗かせる顔には、到底見えない。 「翼くん……なに、言って、」  問いかける間もなく、頬を辿っていた翼くんの指が、おもむろに私の首元へ動いた。なんの脈絡もなく動いたその指先が、一気に喪服の合わせ目へとかけられ、ぐっと横に引かれる。  驚きに目を見開いたのが先だったか、視界が反転したのが先だったか。ぐるりと動いた視線がやがて捉えたものは、真上から私を見下ろす翼くんの顔だった。  押し倒されたと気づいたのは、それからさらに一拍置いた後。 「っ、やめて翼くん! ねぇ、どうしちゃったの……っ」 「嫌だね。別にどうもしてないよ、でももう一葉さんは俺のなんだ」  声は、微かに震えて聞こえた。  けれどそのことを訝しく思うよりも先、いつの間にか私の口元に顔を動かしていた翼くんに唇を塞がれる。 「っ、ん、ぅ……ッ」  表面の温度を確かめるようにそっと触れていた彼の唇は、間を置かず、私の唇を割って先へ突き進んでくる。口内に侵入してきた熱の塊が縦横無尽に暴れ回り、すでに混乱の極地にあった私を、さらなる坩堝へと沈めていく。  夫の口づけとは明らかに異なる、ひどく性急な仕種だった。  薄く目を開いた先には、昔の夫によく似た男の人の顔が見えた。幼い頃に憧れていた〝近所のお兄ちゃん〟と、ほとんど同じ顔が。  舌に激しく絡みつく熱の感触は、ここ数ヶ月で一度も体感したことのないものだ。  ……いや、違う。こんな口づけは、今まで、一度も。  死期が迫り始めた頃、夫は頻繁に私を抱くようになっていた。その行為の最中にも、これほどの激しさを見出したことはない。  ここ最近は身体を重ねるだけの体力もなくなり、見舞いに行くたび、夫は縋るように口づけをせがんできていた。目前に迫った命の終わりからひとときでも目を背けたいがため、手近な人間に縋りたいのだ――なんとなく分かっていた。  結局、身体も唇も、私は拒まなかった。自分が愛されている気分に浸れたからだ。  それでも、あの人から与えられる抱擁にも口づけにも愛撫にも、これだけの熱は感じられなかったのに。  この人は、誰。  夫によく似た顔で、夫よりも遥かに激しく執拗な口づけを繰り返す、この人は。  初めて、圧しかかる彼の胸を押し返した。 「あっ……! お願い、翼くん、やめて!」 「嫌だよ、やめない。ねぇ一葉さん、今あいつのこと考えてたでしょう? そんなに似てるかな、あいつと俺」 「っ、あ……」  まるで獣だ。  にやりと口元を緩めた目の前のその人は、私が知る息子とは完全に別人だった。 「いいよ、あいつの名前、呼んでも。俺に抱かれながら、あいつに抱かれてるって思えばいいよ」  言葉の最後とほぼ同時、はだけた喪服の隙間から覗いていた首筋に歯を立てられる。  悲鳴じみた声が口をつき、どこか遠く感じられる意識の中、私はぼんやりと自分のその声を聞いていた。  ……この人は、どうしてこんなことを。  純粋な疑問を脳裏に思い浮かべ、最後に聞こえた翼くんの言葉と声に宿っていた物悲しさを反芻しながら、私はきつく目を閉じた。
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