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プロローグ
「ラーシュ様?」
がたん、と長椅子に上に座り込んだーーというよりも崩れるように倒れ込んだのを、重い荷を運んできた世話役の神官が訝しげに見つめてくる。
「……いえ」
もっとましな言い訳をしたかったが、いま唇を開いたら意味のある言葉じゃないものまで出てしまいそうで口を噤む。代わりに熱い吐息が漏れて、うすく開いたままの唇を濡らしていった。
どっしりとした緻密な織物が張られた座面。その豪奢な感触よりも、今は、そこに着地している肌がざわめいている感覚の方が強い。
ずる、と体の内側をなにかが舐めるように撫でていく。現実にそこに触れている存在はいない。中に何かが入っているはずもない。それは絶対に正しいと分かっていても、間違いなく快楽はそこから生まれているのだ。
あるはずのない感覚を打ち消したくて尻を強く座面に押し付けるが、それによってさらに奥に入り込んだような錯覚に襲われて息を呑んだ。
「っひ」
声も出せない。顔にも出せない。
それなのに、さっきから体の中を暴れる甘い痺れはどんどん増してくる。
「っ、ん」
運ばれる桶の中でちゃぷちゃぷと揺れるのは、今日の湯浴みに使われる湯だ。ゆっくりと浸かれるだけ溜めるために人の流れはさっきから何往復も繰り返されているのだが、今日ばかりは無駄に大きな浴槽が恨めしい。
「……あと少しで終わる」
近くから落とされた独り言みたいな囁きを耳が拾った。そこに籠められていたのは、慰めではなく、叱咤の声だったが、ラーシュはぎゅっと指先に力を込めて耐える。
じりじりと、微かな隙間から砂が落ちていくのを眺めているような時間だった。
当てつけのように隣に立つ男の拳を横目で睨むと、ただ体の前に下げられているようでいて、それは酷くきつく握り締められているのがわかった。この男も耐えているのだと分かって少しだけ溜飲を下げる。
「それでは、本日もごゆっくりとお寛ぎくださいませ」
「ご、苦労様……」
空の桶を抱えて頭を下げる男たちに気取られないよう、なんとか唇を引き上げたが、ドアが閉まった瞬間まで堪えるのが限界だった。声を上げないで済んだのは、奇跡に近い。
「んっ、は、あ……。も、無理……」
「くそッ、なんて言うタイミングだ、あいつら……」
唸るような声がエイナルから漏れる。
こうなってから、いつ何が起きてもいいように不用意な外出はほとんどしていないのだ。それなのに人がいるときにアレが起こるとは。エイナルがそう言いたくなるのも当然だった。
「……おい、立て」
「む……り……っ」
「無理でも立て」
強い力で二の腕を掴まれて、張り付いていた座面から引っぱり上げられる。向かおうとする先は湯浴み場だと思うが、力が入らずに足がたたらを踏む。
「あっ、」
ぞくぞくっと、抗いきれない気持ちよさが背中を抜けていく。
皮膚から即効性の毒みたいな何かが流れ込んでくる。
見上げれば、黒髪の間から、鋼みたいな灰色がこちらを見つめていた。普段は硬質な光を帯びているそれが、むせる様な濃い色に染まっている。
「……いいのかそのままで。するんだろう、あれを……」
「あ……」
腕のうしろに喰い込む、男の長い指。意識してしまってカッと顔に熱が集まった。
「それとも、ずっとそこにいるつもりか?」
「……ぅる、さい! 今、立つ……っ」
みっともなく反応した下肢の膨らみを見られたかもしれない。恥ずかしさに頭が煮えそうだ。
断りたいけど、断れない。
もうそれでしかこの身体の疼きは治まらないとラーシュにも分かっているのだ。
こんなはずじゃなかった。こんなことになるなんて、誰が想像できただろう。静かで代わり映えのしなかった生活は激変し、一ヶ月と少し前のことが、もはやはるか遠い昔のことのように思える。
快楽に白く塗りつぶされそうな思考の隅で、ラーシュは現実逃避のようにまだ平穏だった頃の暮らしに想いを馳せていた。
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