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壁の、むこう
こうして初めからつまづき気味のスタートだった共同生活は、本格的に始まってからも予想通りなかなかに困難を極めた。
意外と器用な性質なのか、頼めばなんでもやってくれるし、やり方もすぐに覚えてしまうのだが、まず呼んだとしてもなかなか来ない。呼んだって返事もしないから、聞こえているのかいないのもわからずラーシュはいつもその男の名前を叫び続ける羽目になる。
「エイナル、エイナル!」
「聞こえている」
「だから、聞こえてるなら返事くらいしろって」
呆れて言っても、まったく響かない。なんて寡黙な男なのだろう。しかもいつまで経ってもこの口調は直らない。
「もうすぐ湯浴みの時間だから……」
「湯なら用意して置いてある。手拭いも置いた。石鹸も新しいものを補充してある」
「え、そうなの? なんだ、準備できるの待ってたのに」
仕事はできるがコミュニケーション不足。それがラーシュの出した結論だった。それが果たして仕事ができると言えるのかどうかは微妙なところだったが。
「そういえば、風呂、まだ使わないんだな。使っていいって言ってるのに。こっちのほうが近いだろ」
「共同用ので十分だ」
それでも最近は呼べばこちらを振り向くことが増えたのだからたいした進歩である。
なにせ最初の頃は、呼んでもまったく反応が無くて、耳かどこか悪いんじゃないかと本気で疑ったものだ。そう考えると少しはあの男も変わったのかも知れない。
変わったといえばラーシュのほうも変化はあった。
これまでは毎日これといったやることもなく、万事アルネが済ませてくれるのを待つだけでよかったが、不馴れなエイナルの仕事に抜けがないか、ラーシュも同じように一日の作業を確認するようになったのだ。
おかげで今では食事の準備を頼んでから運ばれてくるまでの時間や、下着のしまってある場所、掃除のタイミングまでばっちり頭に入ってしまった。それに、なにから何までしてくれるわけでもないから自分でやることも増えた。
アルネは、随分世話を焼いてますねと笑うけれど、こちとら生活がかかっているのだからしのごの言っている場合ではない。
そんな毎日は、ただ座ってぼうっと待つだけの日々よりよほど考えることがある。手が足りなければ手伝うこともあるし、前よりも生活に起伏ができたように思う。
通常であればその疲れはきっと心地よい眠りを呼ぶのだろうが、睡眠環境に関しては、残念ながら、完全に悪化の一路を辿っていた。もちろん原因は二人の同居のきっかけを作ったあのフレドリカ様である。
その日もベッドに入ってからなかなか眠りが訪れず、ようやっとうつらうつらし始めたところだった。
覚えのある感覚に息が漏れ、ラーシュはぱちりと目を開く。
離れゆく闇を取り戻すように一度だけぎゅっとまぶたをきつく閉じるが、嘲笑うがごとく、さらに体の感覚が鮮明になった。
間違いない。宵闇に盛り上がったのか、フレドリカがまた例の行為を始めてしまったらしい。
「あいつら、また……」
窓を覆った布の隙間から射し込むのは月明かりだ。まだまだ朝は遠い。
当面は人が来ないことだけは救いだが、これがいつまで続くのかを考えると頭が痛い。
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