静かなる神殿と精霊の加護

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静かなる神殿と精霊の加護

 石造りの神殿の廊下をしずしずと歩む毛織りのローブの裾は真白く、毛皮で裏打ちされたマントルは労働とは無縁の証だ。みっしりと詰まった柔らかな毛は底冷えする空気の端をも通さない。  歩を進めれば、風が小麦の穂先を撫でるかのように人垣がさっと分かれ、誰しもがこちらへ向かってこうべを垂れる。  深くヴェールを纏って俯き気味に進む道のりを遮れる者は、ここには誰もいなかった。  引きずるほど長い女性用の広袖が足元に巻き込まれれば、後ろに付き従う女達が即座に乱れを直していく。  この毛織物は舶来の極上品で、襟元に覗く刺繍は高名な職人の手によるものなのだとか、険しい雪山でわずかな期間だけ採れるガレーの毛は純血と節度の象徴なのだとか、これを寄進してきた商人は滔々と語っていたらしいが、着ている本人にとってみれば衣装部屋に並ぶうちのひとつというだけだ。  ラーシュにとっては、高い天井から射し込む夕日が先月よりも低くなっていることのほうが気がかりだった。また雪に閉ざされて何も出来ない季節が近づいていることを思うとどうにも憂鬱になる。 「おひさしゅうございます、大司教様」  大聖堂の入り口を通りすぎてたどり着いたのは、廊下の一番奥にある、ひときわ大きな私室だ。  高く作った声音とともに頭を下げれば、鷹揚な頷きがひとつ返ってくる。 「ラルサ、……いや、今日はラーシュと呼ぼうか。久しいな」  ひと月ぶりに謁見した私服の大司教は、相変わらず薄い白髪を後ろに撫で付け、そしてやはり、丸々としていた。  つん、とでも押せば高い祭壇の上から勢いよく転げ落ちそうなそのフォルムは聖職者としては滑稽ですらあるのだが、ラーシュは頭の中で何を考えようとも表情には一切出さない。それは長きに渡る仮面生活で、唯一身に付けた特技だった。 「何ぞ、変わりはないか?」  一段高いところに座る大司教の肩では、麦穂の色をした体に、ひときわ大きな若葉色の瞳をしたちいさな人型の精霊が傅いていた。深い礼を向けるのはラーシュに対してだ。  それを目の端に捉えながら、本当は変わったことがあったほうがいいのだろうなあとラーシュは思いつつも、いつも通り、まつげをゆったりと伏せて答える。 「はい、お陰さまで万事つつがなく過ごしております」 「……そうか」  息災を知らせるはずの返事に、大司教は案の定深くため息をつき、まともに向けてもいなかった視線を完全に逸らした。  十三の頃から毎月繰り返され、もはや暗記してしまった会話は今月も変わる気配がない。 「フレドリカ様は?」  視線がラーシュの肩のあたりに向けられるが、彼の視線はそこにないこと(・・・・)を確かめているようだった。 「……退屈だと言って、もう四日も姿を見せておりません」 「退屈、か。そう言われて昨年も馬揃えやチェスをご用意したが、まるで駄目だったな」  見事な葦毛や栗毛の馬が並ぶ中、肝心の本人は姿も現さなかった。領内で一番のチェスの名人が招集されたときも同じだ。肩を落として帰っていく後ろ姿を申し訳なく見送ったときのことを思い出し、ふたりは揃ってため息を吐く。 「また彼の方の要望があれば聞いておいてくれ。なにか糸口が掴めるかもしれぬ」  会話らしいものはそれだけで、話す内容はすぐに尽き、ラーシュは促されるままに静かに退室した。  さっき来たばかりの道をまた同じようにしずしずと戻る。回廊の途中にある日当たりのよい部屋の扉を、神官がうやうやしく開けた。 「おかえりなさいませ、聖女ラルサ(・・・)様」  木製のドアには細密な彫りがなされ、抜けた先には磨き抜かれた石が嵌め込まれた床が広がっている。  年代物ながら磨き込まれた飴色の調度品も、その上に乗る精細な陶器で形作られた異国の香炉も、この領内で手にすることが許されるのはいったい幾らの人々か。  だが、それらには目もくれず、表の豪奢な部屋を通り抜けるラーシュの足はまっすぐに簡素な寝室に向かう。 「準備整ってございます」  対峙するのは、部屋の最奥。書架とカーテンの隙間に隠れるようにある扉だ。それは手を掛けるところすら無く、ぴったりと同じ色の壁に同化している。  廊下からずっと後ろに付き従っていた女が黙ってそっと手をかけると、軋みもなく戸は開き、奥へ細長い空間が現れる。  きっちりと束ねられた侍女の緑の編み髪が揺れ、ラーシュは静かな一礼でもってその先へ見送られた。  真っ暗な通路を数歩ゆけば、向こう側の光へと到達するのはすぐだった。  しとやかな歩みが止まり、後ろの扉が閉め切られた瞬間、ラーシュは頭をかきむしって喚きだす。 「あーもう、重い! かゆい! なんでこんなの被ってないといけないんだよ!」  ヴェールごと頭を引っぱれば、真っ白な髪はずるりと外れ、繊細ながらも鮮やかな飾り紐で彩られた神秘的な三つ編みの下からは、珍しくとも何ともないブロンドの地毛が現れる。  髪の長さも肩より上で切り揃えたくらいで、それだけでも印象はガラリと変わった。 「はいはい、ラーシュ様。恨むなら、ちゃんと『白い髪の聖女様』に産まれてこなかったご自分を恨まれてくださいね。それから、そんな言葉遣いをしているのを聞かれたら、また孤児院訪問に行かせて貰えなくなりますよ」  先ほどあちらの部屋から見送った女と瓜二つの顔をした緑色の髪の男が、荒れた声にも慣れた様子でお湯で絞ったタオルを渡してくる。  アルネが双子の姉とともに神官の付き人としてついてから早三年。  こんなことにもとっくに慣れっこになったこの男は、一見にこやかな笑顔の裏に有無を言わさぬ強引さを持ち合わせている。  つまり、怒らせるとより面倒くさいことになるということでもある。  しかたがないので、ラーシュはそれ以上の悪態をつくのを止めて、布張りの椅子へ勢い良く腰を下ろすと、おとなしく顔と手の甲をぬぐうことにした。  ほかほかとした湯気が気持ちがいい。朝からみっちりと白粉を叩かれて作り上げられたきめ細かい柔肌がタオルへ溶けていき、拭き取ったところからは血色の良い素肌が現れる。 「勝手に期待するほうが悪いんだって。おれが自分から『聖女』だなんて言い出した訳じゃないし」  産まれたときにはプラチナブロンドだったという髪は、年を経てどんどん暗くなるばかり。雪よりも白い髪で生まれるという言い伝えの聖女とは似ても似つかない。  そもそも、ラーシュは背も高いほうではないし、ひょろりと痩せた体は痩せぎすの女と言っても通るくらいの貧相さだが、性別は間違いなく男である。  それがどうして、女装に『ラルサ』という偽名まで使って形ばかりの聖女を演じることになってしまったのか。  それはまあ簡単に言えば、おおむね下級神官である助祭だった父親の出世欲がきっかけで、そのあとはあれよあれよとここまで流されてきたわけだが、これ以上それを蒸し返しても嫌な気分が目の前に積まれるだけだったので考えることを放棄した。
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