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湯あみの支度をしてくると言って下がったアルネを見送り、ラーシュは椅子にもたれて重たくため息をついてから顔をあげた。温かかったカップの飲み物はすっかり冷めてしまっていた。
「フレドリカ、終わったぞ」
しゅるり、途端に身の内にたゆたっていた気配が渦を巻くように濃ゆくなり、ラーシュの肩の上に手のひらを広げたほどの人影が現れる。
「あら、今回も短かったじゃないの」
彼女自身の重さはふわふわと宙を漂う羽毛よりも軽い。それなのに、そこにいるというだけで圧倒的な存在感を放っていた。
瑞々しい白銀の髪は一分の乱れもなく腰まで流れ、ほっそりした指先が長い前髪を優雅に掻きあげる。
シミひとつ、影ひとつ無い滑らかな玉肌。縫い目の見つからない、朝陽を紡いだような長い衣。そして何よりもしなやかな体のラインから漏れる、限りなく薄い、冬の晴れ空のような青。そこにわずか混じるのは、雪よりもまばゆい程の白だ。
きらきらと輝き、四肢を取り巻くもやのような光となったそれらが、人ならぬ身の彼女を実に神々しく見せていた。
聖なる精霊様。数多いる妖精どころか、一番高位とされていた大司教の精霊すらひれ伏すのがこのフレドリカなのだ。
だが、その深い黒檀の瞳に意地悪さを湛えて、にやにやと笑っているのが見えて、ラーシュはじっとりと両の目を眇める。
これを聖なる存在などと言いだしたのは一体どこのどいつだ。この本性を知らないからそんなことが言えるのだ。
「……毎度話すことがないのは誰のせいだと……」
肩を落とすラーシュに構わず、フレドリカは小さくもなまめかしいそのおみ足をスリットの下で組んで唇の端を上げて見せた。
「ねえ。ちゃんと言ってくれた? あたしが暇してるって」
彼女は何が嫌なのか、数少ない自由に表に出られる機会だと言うのに、大司教に顔を見せることは滅多にない。
中にいる状態からでは外の様子はわからないらしく、月に一度の謁見の後にはこうして簡単な報告をするのが定例になっていた。
「言っておいたよ。おまえが満足するものが出てくるとは限らないけどな」
「だって、人の世には詳しくないのだもの。何があるかわからないんだから、こちらで指定できなくてもしょうがないじゃない」
本当に高位精霊様なのであれば全知全能なのではないか。これは、ただの横暴わがまま姫じゃないかと思いたくもなるのだが、フレドリカに出会うと他のファミリアはことごとく傅くので、やはり別格な存在であるらしい。
それに、他にも、教会が彼女を聖なる存在として確信する理由があった。
まだ教会預かりになってしばらくも経たない頃、よちよち歩くくらいの年のラーシュは修道院で養育されていた。そのとき付けられていた老齢の世話女が病に臥せったのを、フレドリカが治したというのだ。
幼かったラーシュにはその頃の記憶はないが、彼女が治癒の能力を持つのはどうやら間違いないらしい。その力や知識を、ラーシュが操ることができないだけで。
子供の頃はそれでもまだよかった。成長すれば操れるようになるだろうと周りも楽観的に見守ってくれていた。だが、十三になって神殿の奥へ上がり、さらに三年も経てばさすがに反応も変わってくる。
それも当然のことで、十五歳を過ぎれば村では立派な働き手だ。かたやラーシュは何重にも守られた神殿の奥で、女装をして、しずしずと聖女様ごっこである。まったくやるせない。
教会もはやく諦めてくれれば良いのに、どうあってもその力を会得するようにとの圧力はすさまじいのだ。
「ああ、退屈だわ。どこにも行けないし、話し相手もいないのだもの」
口を尖らせるフレドリカは、村娘のようにぶらぶらと足を揺らしていて、見目に反して威厳のかけらもなかった。とは言っても、ラーシュの見なれた彼女の本性はだいたいこんなようなものだ。高尚そうなところなんてお目にかかったこともない。
彼女はいつも外へ出たがるのだが、ファミリアは宿主の人間からそう遠くへは行けないらしい。
神殿の敷地は広大で、周りには所有している田畑や森林が広がっているから近くに大したものはないし、そもそも男の姿のラーシュが聖なる精霊様と一緒にいるところを見られるのはまずい。聖女の入れ替わりを知っているのは上層部と付き人のごく僅か、その下の神官には聖女ラルサの病弱な弟として伝えられているらしいのだから滅多なことはできない。
この秘密を守るために神殿の奥に閉じ籠もるラーシュと同様に、引きこもり生活のフレドリカは、楽しみもなくどうにも退屈だといつも訴えている。それなりに手は打ってきたのだがこれまでに響いた試しはなかった。
「あたしだけじゃなくて他のファミリアだって暇しているはずなんだから。ねえ。ちょっと、聞いてる?」
「……聞いてるよ。話し相手って言ったって、おれとは喋ってるじゃないか」
「坊やは、あたしの可愛い坊やだもの」
にっこりと笑顔で遮られ、話をごまかされたことに気付く。眉を顰めて彼女の言葉を反芻するとさらにおかしなことに思い当たった。
「だいたい、他のファミリアも暇してるって言うけど、そもそも普通は人と話せないんじゃないの?」
こんなにペラペラ喋るのは精霊のフレドリカくらいだ。普通は意識の感覚だけでなんとなくのやり取りをするか、それもできないか、言葉を使ったとしてもさほど口数は多くないものらしい。
だが、高貴なる精霊様はわけ知り顔で、あらあ、とにんまり笑う。
「どんなファミリアだって言葉は持っているわ。人間のほうがそれをじきに忘れてしまうだけ。坊やだって、ずっとこんなところにいたらそのうちにあたしと話せなくなるかもしれないわよ?」
うるさいほど喋る彼女を見ていると、そんな日はついぞ来ないと思うのだが、反論してもたいした効き目にはならないだろう。はいはいと聞き流していると見てわかるほどに機嫌が急降下していく。
「……こんなところ早く出ちゃえばいいのに」
「またそんなことを……。出られるわけないだろう。だいたい神殿を出てどこへ行くって言うんだよ」
「もうっ、だから坊やは坊やだって言うのよ。知らないんだから!」
拗ねるようにわめくと、癇癪を起こしたフレドリカはぷいっと窓の外へ姿を消してしまう。
「おい、ちょっと。外に出たらだめだって。おまえがやらかしたら、おれのせいになるんだから……」
あっという間にその背中は見えなくなるが、ファミリアが一定以上宿主から離れることはない。というよりも、できないはずだ。ということは姿が見えなくてもそれなりに傍にいるということだろう。許してもらえることを知っていながら親に駄々をこねる子供のようなものだ。
これではどちらが加護を与えているのかわからない。せめて探すのを手伝ってくれるアルネがいるときにしてくれたらいいのに。ため息を吐いてラーシュは立ちあがった。
残念ながら、これもラーシュのいつもの光景なのであった。
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