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「う、っわ。あいつ何やってるんだよ……」
きょろきょろと辺りを見渡しながら歩いていると、突然ひやっとしたものを背中に感じてラーシュは飛び上がらんばかりに驚いた。
ファミリア自身には温度や熱の感覚はほとんど無いようなのだが、ラーシュの方の感覚が引きずられて、まるで自らの体に起きたことのように感じてしまうのだ。
フレドリカとラーシュの他に例がないため、感覚共有と名付けられたそれはしばらく神官たちの調査対象になっていたが、今のところ何かの役に立つどころか、こうして時たま驚かされる原因にしかなっていない。
この温度だと、冷えた日陰の壁にでも寄り掛かったのだろうか。彼女が好んで火の中をくぐったりしないのは不幸中の幸いだが、大雪が降った早朝にフレドリカがふかふかの新雪に飛び込んだ感覚で飛び起きたときはさすがのラーシュも本気で怒ったものだ。
「もー、全然見当たらないし……」
なんだか急激に体温を奪われた気持ちになり、ラーシュは日向を求めて廊下から中庭へと足を踏み出す。
今回の『家出』はだいぶ遠くまでいったようだ。すでに陽は短く、風は冷たい。庭も影のほうが多くなっている。ラーシュはわずかな太陽の光を求めて中庭の真ん中でしゃがみこんだ。
目の前にあるのは、長方形にレンガが積まれているから花壇か何かだと思われるが、花も無く、なんだか丸っこい葉っぱばかりが不格好に伸びていた。これではラーシュの好きな蝶も来ないではないか。
「……草ばっかり」
これを減らしたら花が咲くだろうか。それとももう次の春までは無理だろうか。そういえば花っていつまで咲くんだろうか。あまり考えたことがなかった。
物思いと暇潰しの合間で、ぶちぶちと草を引っこ抜く。手を動かすたびに刺繍がされている袖口が泥の上を擦っているのが見えたが、気にしないことにした。
耳の下で揃えた男髪に、女物の装束。中途半端な姿はまるっきりラーシュそのもので嫌になる。
一体いつまでこのままなのだろう。自分は蝶になれない芋虫みたいな存在だ。いつか蝶になると思っているから醜い芋虫でも飼って貰えているだけで、いつまでもこの姿だとわかったら窓から捨てられてしまうかもしれない。
聖女と崇められるあの空気は何度演じても慣れることがない。いっそ心まで聖女に成りきれればいいのに、自分が役立たずだと思い知らされるばかりですぐにでも消えてなくなりたくなる。せっかく日向に来たのに、ずるずる沼に落ちるように暗くなっていく思考が止められなかった。
「なにをしている」
「ぎゃっ」
突然振って来た声に、驚きのあまり変な悲鳴が出てしまった。飛び上がった体が地に下り、竦めた肩でそろりと振り向くと、見たことの無い男がそこにいた。
真っ黒な伸びかけの髪に、額から眉にかけて走る古い傷痕。がっしりとした体に纏ったねずみ色の上衣は短く、いかにも古びており、ところどころほつれて全体的に煤けている。
もっとも、一番印象に残るのは、ギラリと睨みつけて来る視線で、有り体にいって不穏な雰囲気だった。
格好からすると下男だろうか。見覚えのない顔だが、ラーシュの傍には上級神官くらいしか寄らないから、下働きなら会ったことがなくても不思議はない。どうやら、フレドリカを追っているうちにずいぶんと変なところまで迷い込んでしまったらしい。
「えっと……」
ここはどこなのだろう。一番手近な目の前にいる男聞きたいところだが、鋭い眼光が向けられていて、とても聞ける雰囲気ではなかった。
しかもさっきから不躾なほどつま先から頭の天辺までじろじろと睨めつけられている。何だ、と思ってから思い出した。
フレドリカを追って慌てて出てきたから、聖女用の白髪のかつらとマントルこそ置いてきたけれど、ラーシュが着ているのは長く引きずる広袖の上衣だ。
男女の衣装はどちらもゆったりとした長い丈の上着をベルトで留める形で、足も隠れるほど長いから、大枠で言えばさほど違いはないのだが、漏斗状に開いた女性用の大きな袖口は丈も長く、外を歩くのには絶対向いていないし、何よりもこの華やかさは明らかに男が着るものでない。
完全装備したときならともかく、化粧を落とした顔で着ていれば滑稽なことこの上ないだろう。
「あ、あの。これは……」
しどろもどろに弁解しようとすると、叩くように手を伸ばされた。
「貸せ」
「えっ?」
呆然としていると、いつの間にか男の手にはさっきラーシュが引っこ抜いていた草がある。泥のついた自分の手のひらがぽつりと残されているのを見て、ひったくられたのだと気付いた。
そんなものが欲しかったのだろうか。意味がわからなくてぽかんとしていると、さらに男の眼光が険しくなる。
「お前、自分が何をしているのかもわかってないのか?」
ぎろりと睨まれて、身動き一つできなくなる。
ラーシュが親元を離れたのはまだ言葉もおぼつかないうちだ。それからずっと、聖なる精霊の庇護を受けた者として、かすり傷ひとつ負わないように、どんなささいな病にも罹からぬように、常に人に囲まれ、その行動を制限されて十重二十重に守られてきたのだ。ひとつ口にすれば付き人が動き、商人は誰もかれも貢物を献上し、民に謁見すれば祈りや言葉を求めて押し寄せ、さざ波のように頭を下げられる。
そんな生活の中で、露骨な害意を向けれた記憶などあるわけもなかった。
「勝手なことをするな。奥で好き勝手をしようとも、ここはお前の場所じゃない。神殿にいて働きもせず、役に立たないどころか仕事の邪魔までするつもりか」
「…………はあ?」
喉の奥で凍りついていた呼吸が、塊になってぽろりと出た。
普段接する人間にはいない粗野な態度に怖気づく心がないと言えば嘘になる。けど、それ以上に聞き逃せない言葉があった。
ここで役に立ってない? そんなことは言われなくても自分が一番わかっている。
面と向かって言ってくる人間なんていなかった。柱の影からあからさまな陰口を聞いたこともない。それでも、聖女の正体を知る誰しもがそう思っていることを、ずうっと前からラーシュは理解している。耳に入らないのはそれだけ厳命されているというだけのことだろう。
だから、そんなことは、初対面の相手に言われるまでもなくわかっていることなのだ。
だが、そう言い返そうと思って震える喉でひゅっと息を吸い込んだ瞬間、ラーシュは、別の大声に邪魔をされていた。
「これはこれは、ラーシュ様! そんな薄着で外にいらしてはお風邪を召されますぞ。はやく中に入られませ」
姿を認めるなり大慌てで飛んできたのは、修道院にいた頃に世話になっていた副修道院長だった。今日の謁見の儀に合わせて来ていたらしい。
ひさしぶりだというのに子供のように上衣で包みこまれて、枯れ木のような手で肩を摩られ、ささくれだっていた毒気がすっかり抜けてしまう。この老人はラーシュのことをいつまでも五つの子供と思っているのか、大の心配性なのだ。
「わかってる。大丈夫だよ、これから湯浴みをするところだから」
「それがようございます。ささ、お早く」
なかば強引に促されて歩き出したところで、副院長は顔だけで後ろを振り向いた。
「エイナル、なぜお前がいるのだ。ここは外の下男が入るのを許される場所ではないぞ」
「……神殿の神官様に仕事を命じられたので。ですが、すぐに戻ります」
老神官の表情は見えなかったが、ラーシュに向けたのとはうって変わって冷たい声が響いたのはわかった。
「ラーシュ様、いきましょう」
もはや返事も聞いていなかったのかもしれない。ぱっとこちらに向き直った副院長に追いやられるようにして中庭を後にしたが、あの視線が背中に突き刺さっている気がして怒りがぶり返してくる。
正直、消化不良もいいところだったがそれ以上怒るタイミングも無くしてしまったし、ここから抜け出して戻ることも難しいだろう。しかも、あの場に残っていなかったら探しようがない。
修道院は教会とは別系統であるが、権力的なことを言えばそこのトップは司教と並ぶくらい偉い存在である。そこの二番目に偉い副修道院長に叱られるのはなかなかに堪えただろうが、ラーシュとしては自分の口で言い返してやりたかった。
エイナル、と聞いた気がする。下男だったらまた会うことがあるかもわからないけれど、あいつの名前だけは絶対に覚えておいてやる。
ラーシュは記憶を手繰り寄せながら固く誓って、副院長に相槌を打つ笑顔の下にそれを押し込めた。
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