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兆し
部屋へ戻って腹立ちまぎれに夕食を平らげ、そのへんの水鳥のように適当に行水を済ました。
その勢いのままベッドに飛び込んだのがいけなかったのか、その夜に見た夢は最悪だった。
ラーシュがいたのは、どこもかしこも暗い世界だった。
後ろから、ぐるぐると、とぐろを巻いた煙のようなものが追いかけてくる。逃げようとしても蛇のように足から巻きつかれて、沼に沈められるが如く抜け出せない。右も左も同じ濃さの暗闇だからどちらに逃げてもほとんど意味はなかった。
苦しい。重たい。それなのに甘ったるい蜜のような匂いがする。蜂蜜酒よりももっと濃くて、芳しいのに、毒を煮詰めたように脳みそが痺れてくる。気づけば唇からは浅い息が漏れていた。
煙のくせに実体があるのか、ラーシュの体はやすやすと持ち上げられ、皮膚から染み込んだ何かが背骨を駆け抜けていく。内側がひっくり返るような感覚に息が止まる。体が弛緩しているのか、強ばっているのかもあやふやで、ひどく不安な感覚だった。
魘されたせいか目覚めたときにもひどい脱力が残り、寝台の上でぐったりと体を起こすと、下着の中が濡れていた。
さすがに粗相するような年ではない。いや、でもそんなまさか。恐る恐る覗いてみて、覚えのない腐えたにおいに今度はぎょっとする。
「ど、どうしよう、これ……なんか変なのかも……」
朝になっていつもの挨拶と共に頭を下げたアルネに涙目になりながら夜中の出来事を説明して汚れた下着を見せると、アルネは目に見えて固まった。そのまま神殿の入り口両脇にある白い石像くらい動かなくなる。
「えっ」
「えっ、って……そんなにまずい?」
「そうではなくて。……まさか、まだ……だったんですか?」
「は? まだ、って。なにが?」
そうか、そこからか、と呟き、アルネは忙しなく口を開けたり閉じたり、大きく息を吸ったりしていたが、やがて諦めたように首を振った。
触れるだけで倒れてしまいそうな聖女ラルサを演じている時ならともかく、普段の相対するラーシュは気さくな口調で(その言葉遣いについては修道院にいた頃に孤児と遊んでいるうちにうつってしまったのだと大司教が今も嘆いている)、体つきこそ男にしては華奢だが、健康そのものだ。これまでそういった気配を感じたこともなかったし、話題にのぼったこともなかったが、いくら幼い頃から神殿で育ったとは言っても十六にもなれば当然起こっているものだとばかり思っていたのだ。そうでなくとも、せめて、誰かが教えてくれているものだと思っていた。
アルネの父も司教の立場ながら妻帯しているし、神官と言えども皆が皆、俗世と離れた清廉潔白な生活をしているわけではない。周りにひとりくらいはそういうことに詳しい兄貴分がいたりして、それとなく習うのだ。
自分が幼い頃に聞いた話を思い起こそうと試みたが、いかんせん古い記憶すぎてどうにも埃をかぶっている。そもそもいつ頃のことだったかも思い出せない。だめだ。瞼を開き、きっぱりと諦めた。
「いえ。いいんです、いいんです。とにかくそれは大丈夫ですから。普通の……そうですね、子を成すという意味では普通のことですから。これは子種です」
「こだね?」
「つまり、ラーシュ様もようやく大人になられたということです」
「大人……」
「しかしこれまで無かったとなると、すこし厄介ですね……」
ぽかんと不思議そうな顔をしている主に、改めていかに世俗から離れた育ちをしていることを思い知らされて、アルネは目を眇める。
余計なものから隔絶された真綿に包まれた世界。贅は尽くされていてもそれが果たして幸せなのかはわからないが、教会が聖女ラルサとしての役を求める限り彼を取り巻く状況は変わらない。だが、精通が起これば薄い体つきも徐々に男性的なそれに変わってくるだろう。これまで通りの生活がまかり通らなくなる日が来るかもしれない。
一方で、ラーシュが変化と聞いて真っ先に頭に浮かんだのは大司教の顔だった。
何か変わったことがないかと毎月聞かれているが、子を成せる大人になったというのは、それなりに大きな事柄なのではないだろうか。これまでは未熟だったけれど、もしかしたら、大人になったことを機会にファミリアを操れるようになるかもしれない。
「アルネ。これって、皆に……」
「言わなくていいです」
だが、聞こうとしたところで、若干被さり気味の早口に言葉を遮られる。ラーシュ様、と一歩にじり寄るアルネの笑顔が怖い。
「たしかにこれは変化です。ですが、色欲との戦いの始まりとも言えます。節制と禁欲が教えの教会に言ったところで誘惑に耐えるのみと言われ、そうなれば私も夜まで監視せざるを得なくなる。ですから、このことは外で話すことのないように。良いですね?」
その迫力に頷くよりなかった。普段の数倍は引きつった笑顔が、すでに他のすべての選択肢をなぎ倒していった後だった。だが、その言い様に気になったことがある。
怒られないかどうか、おずおずと下から様子を窺いながら疑問を口にする。
「それは……他の人に言わなきゃ、大丈夫ってこと?」
「ええ、私も余計な仕事が増えるのは望むところではありませんので。詳しいことは今この瞬間に忘れました」
なんと言っても、私は不良神官ですから。悪い笑みでそう付け加えたアルネに、ラーシュはこの朝初めて、ようやく頬の緊張を解いて笑い声をあげたのだった。
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