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聖女への入れ替わりの準備は、何度行っても、少し儀式めいている。
まずは事前に部屋にある浴室で身を清められ、やわらかいブラシと目の細かいやすりで爪をゆるやかな楕円形に整えられ、透明な瓶に入った甘い香りのする香油を手足にまで隅々塗られる。花を思わせるが、蜜というほど甘ったるくないすっきりした匂いで、ラーシュはこの時間が嫌いではなかった。
ふと普段よりも量が多いことに気づいて、後でべた付くのは困ると言ったが、臭いが残っているといけないと主張するアルネに押しきられた。
「ラーシュ様なら大丈夫かと思いますが、今後もあちらへ行っても悪さはなさらないでくださいね」
「悪さってなに。聖女モードになったらほとんど喋らないの、アルネも知ってるだろ」
呆れた口調を聞いたアルネは、黙々と柔らかな麻の下着と、その上に着る細い袖がぴったりと手首まで沿う形の衣を着付けていく。
そこまで終われば、今度は秘密の扉から女性棟にある聖女の寝室に移動して、支度を引き継いだエドラによって白い編み髪のかつらと化粧が施される。
初めて自分の素顔が聖女の顔に変化していく段階を見たときは実に不思議な気分だったが、今は口数少なく白粉をはたかれているこの時間は、ラーシュにとっての切り替えの時間になっている。
下準備を済ませたラーシュが取り繕った聖女の顔で次の間に出ると、あっという間に、戸の外で待ち構えていた五人の修道女に囲まれた。
「ごきげんよう、ラルサ様。今日のお羽織りは何にいたしましょう。この寒さですもの。雪の刺繍もよろしいのでは?」
「いいえ、それよりもこちらのほうが。先日、南の大公より聖女様に寄進されたばかりの衣なのですよ」
「まああ、胸元の意匠の繊細なこと! それに生地もまるで透けるよう。このように薄い織物は、きっと西方からの舶来品でしょうね」
並べられた衣装の上を熱視線が撫で、うっとりとした吐息が重なるが、正直衣装のことはよくわからず、すべて付き人に任せている。彼女たちは決められた修道女服を着る決まりがあるので、そうではない聖女の服を選ぶのが楽しいらしいのだ。
この時期に薄手の絹は寒すぎやしないだろうか。思わず心配になるが、話す回数が増えれば増えるだけ声音で男と露見する可能性が高まるので、楚々とした表情でうつむいたままだんまりを決め込む。寡黙な聖女という設定になっているのだ。
「それにしてもさすがは領内一の有力者ですわね。先の蛮族の越境以来、外からの品はめっきり入ってこなくなったというのに」
「北の民は本当に野蛮でおそろしいこと」
「ええ、そうよ。野蛮なだけでなく迷惑なんて。なんでもこの前の戦では、隣の管区でも被害があったとかで――」
「マリアン、ラルサ様の前ですよ」
さすがに騒ぎすぎだと思ったのか、エドラが冷たい声でぴしゃりと諫めた。その言葉に首を縮めた修道女たちは少し抑えたトーンで話を続ける。
「そういえば、先ほど聖堂を見てまいりましたが、今日も溢れるような人でしたのよ」
「聖女様に御目にかかれる数少ない機会ですもの、あたりまえですわ! ねえ、ラルサ様?」
この中で、その聖女様が実は男だという秘密を知っているのは専属であるエドラだけだ。衣装選びや飲み物の準備を行うのは若い修道女が入れ替わりで行うが、寝室での聖女になる準備に手伝うのは彼女のほかにはいない。
「街でもとっても評判なんですって。聖女様をお見掛けするだけで、子を授かるとか、気鬱の病も治るとか」
それはあまりにも嘘くさすぎる。単に気のせいじゃないのかと思うけれど、期待の眼差しを向ける修道女たちには言い出せない。
着付けられながらも、なにか言葉を期待するような周りの目に負けそうになる。エドラに視線を向けても特に助け船は無く、いつもどおりの無表情でなにか書き付けをしながら控えているから、ラーシュは当たり障りのないことを言って凌ぐことにした。
「……安寧を祈って、今日もお勤めいたしましょう」
衣とヴェールを身に着けたら移動して、大聖堂に隣接した控室に納まる。ここから先の付き添いはエドラだけだ。
ここのところ急に寒くなったからマントルを身に着けてきたのは正解だった。夕闇の近い空気はぴりりと冷え始め、廊下を歩いていても骨身に染みてくる。
「今日は一段と賑やかだったね」
歩きながらこっそり後ろに話しかければ、ため息と共に返事があった。
「貴族の子女は教会預かりになっても変わりませんね。せっかく女性でも勉学を行える環境があるというのに、これではまるで宮廷と同じです」
ふたりが向かうのは聖堂の裏口だ。どこまでも高い壮大な塔の中には、見事なレリーフやエッダに紡がれる神々の絵が描かれた壁画があるが、それは信者を迎えるためのもので、神官たちは祭壇の袖に繋がる通路から入る。
途中の絨毯が敷き詰められた小部屋には、いつも通りローブを目深に被った老人が待っていた。
「ご機嫌うるわしゅう、聖女様。本日は、一列目にいる青い服の老人と、奥の三列目にいる貴婦人に授けられますように。頭に羽をつけているのが目印です」
渡されるのは、天の割れ目と呼ばれる木の札だ。
ノルスケンの表面には彫刻が、裏面には教典の一篇がそれぞれ選ばれて書かれている。受け取った人は神々の世界と結ばれ、善行を積んだものには祝福が、悪行を重ねたものには罰が与えられると信じられている。
それを月に一度、大聖堂へ集まった信者へ神からの導きとして数人に手渡すのがラーシュの、いや、聖女ラルサとしての役目だった。渡す前にこの小部屋で、裏面の文字を書くのだ。
木片はいつ見ても見事な木彫りが施されている。幾何学的なものや、季節の花、森にすむ動物のこともあれば、神話の神々が彫られていることもある。どれも見事だが、不思議と聖堂や聖具の類いは見られない。
ラーシュは用意されていた羽ペンで、思いつくままにエッダの詩編を木片に書き付ける。幼い頃から教会預かりになっているラーシュにとっては、教典は童謡代わりだったから、そこからひとつやふたつを選ぶことなど動作もないことだ。さして時間はかからない。
「それでは、よろしくお願いいたします」
「青い服の老人と、羽をつけた貴婦人、ですね」
もう一度確かめて満足そうな頷きを待つと、ラーシュは祭壇に向かって楚々とした歩みを進めた。
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