兆し

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 『謁見の儀』は神殿で聖女ラルサとして暮らすラーシュの仕事と言える唯一のものだ。  フレドリカだって出てこない。本人としてはそこに立っているだけで、特別何かをするわけではないし、崇め奉られる空気は非常に苦手なのだが、聖女様に会えたと熱狂的に喜ぶ人々を見ているとどうにも断りづらくて困っている。  毎回、聖女の手から授けられるノルスケンは二枚か三枚程度だから、伝えられた人相を探しながらでもすぐに終わってしまう。ラーシュはいまだ熱狂冷めやらぬ聖堂を後にすると、今度は表の入り口から、頭を下げる人垣の間をゆったりと退室した。  神殿に勤める者がすべて謁見の儀に参加するわけではないし、月に二度の定例行事となった今では、むしろ通常の修行や支度のために動いている者のほうが多いのだろう。だから、退出の折りにはすれ違う神官たちが多くいるのだが、その皆が手を止めて聖女に頭を垂れた。  女の姿であるときは、ことさらゆっくり、たおやかに歩くようにと大司教から厳命されているから、通りすぎるまでの時間は短くはない。  聖堂に集まった民衆はまだ外に出てきていないはずだが、神官のものではない作業用らしき服を着た姿もいくらか見える。今日は荷運びでもあったのかもしれない。彼らは他よりも低く腰を折り、中にはひれ伏して膝をつく姿もあった。聖堂以外の明るいところで外の人間を見る機会はあまり無いから、好奇心から思わず視線がそちらに向いてしまう。  粗末な衣と黒く短い髪に、どこか見覚えがあるような気がしながら、その前を歩いていた瞬間だった。 「あっ」  かくん、と膝の力が抜けた。けれど声が出たのは転んだことよりも、身体に走った衝撃と驚きのせいだった。  震えるような感覚に膝が萎え、蹲ったままになってしまったラーシュのもとへ、エドラや神官たちが集まってくるが、真っ先にすっ飛んできたのは近くで頭を垂れていた腰の曲がった男だった。 「なにか失礼がございましたかっ。この者は当修道院で預かってからまだ日が浅く……、このとおりお詫びいたしますので、何卒……」  転んだラーシュよりもよっぽど倒れそうに青い顔をした哀れな老人が、地面に這いつくばりそうなほど慌てている。  自分が蹲っているのはつまづいたからでもなければ、足を掛けられたわけでもない。それなのに、このままでは罪の無い相手が罰せられてしまうと、ラーシュは油切れで軋むような首を懸命に動かしていたが、聞き覚えのある名前にびくりと体を震わせた。 「お前も頭を下げぬか、エイナル!」  遠い記憶じゃない。ほんの一日前に耳にした名前だ。急いで隣を目を向け、再び声を出しそうになった。  整えられていない黒い髪に、眉に向けて走る傷痕。  そして何よりも、忌々しげにしかめられた目元は、昨日見たばかりの冷たい視線に違いなかった。ラーシュを役立たず呼ばわりし、あまつさえ邪魔者と言い放ったあの憎き男。  言われた言葉を思い出し、頭がカッと熱くなったが、聖女の格好をした今の姿では余計なことは言えない。 「せ、精霊様!」  言葉を失っているうちに、ふわりと肩のあたりに光が煌めき、フレドリカが現れる。  と、急に体から例の感覚が抜け、途端に呼吸するのが楽になる。 「(ゆる)しましょう。それよりもおまえ、こちらへ来なさい」  高らかな声は周りにも聞こえるように尊大に許しを与えたが、彼女が視線を向けたのは、下男らしき男の方だった。慌てたのは傍にいた男だ。 「しっ、しかし、これは闇のファミリア持ちでして、精霊様の御目にかけるような者では……」 「聞いてたのかしら。このあたしが赦す、と言ったのに?」  物騒な声は、怪しげな流し目とともに放たれたとは思いがたいほど冷たい。 「立ち話をするのは嫌いなの。行くわよ」  脚を叱咤してよろよろと、ようやく立ち上がることのできたラーシュ。精霊に傅くしかない神官たち。だれも先陣を切るフレドリカを止められるわけもなく、連れてこられた、というよりも戻ってきたのは先ほど少しの間だけいた聖堂手前の控室だった。 「ここならもういいでしょ。疲れるから普通の喋り方に戻すわよ」  フレドリカはこの部屋の主のように当たり前の顔で人払いを済ませてしまうと、エドラさえも遮ってぴっちりドアを閉めさせてしまう。  中に残ったのはエイナルと呼ばれていた下男と、いつの間にか祭壇側から戻ってきていたアルネだけだった。
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