兆し

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 エイナルは扉の前に立たされていたが、後ろの扉は錠が降りている。本当に連れ去ってきたという状態だった。意味がわからない。フレドリカは滅多に他の人の前には姿を現さないし、ましてや、誰かを個人として呼びつけることは一番近しいアルネにだってしたことはなかった。 「フレドリカ、なんでこんなやつ……」 「あらン。坊や、この子のことを知ってるの? 向こうは知らないみたいだけど?」  視線で示す先では確かに、戸惑いと警戒の視線が揺れている。それはそうだろう。この男が中庭で会ったのは、かつらも化粧もない、くすんだ金髪の姿のラーシュだ。 「まあ、気づかなくてもしょうがないけど。これならわかるだろ?」 「……は?」  ずるりと落ちる白い三つ編みのかつらとヴェール。  まだ化粧は残っているが、それだけでもだいぶ印象は変わるはずだ。声音も話し方を作るのも止めているのだから。  信じられないと目が見開かれるのを、ラーシュは少しは意趣返しをしてやった気持ちで満足しながら眺める。 「信じてたら悪いけど。謁見の儀の聖女って、おれのことだから」  ちなみにこれは神殿の超機密事項ですので。外に漏れた時は相応の対価を払って頂くことになりますのでご注意くださいね、とすかさず笑顔で脅しをねじ込んでくるアルネに、何を悟ったのか、大きなため息が吐かれる。 「それで、なんでこんなとこまでこいつを呼び出したんだよ」  フレドリカはラーシュの問いには答えず、ドアの前に立つ男をじっと見つめていた。 「名前は?」 「……エイナルと」 「あなたじゃなくて、ファミリアのほうよ。さっきあの男が、闇のファミリアと言っていたわね」  言っていただろうか。言っていたような気もする。それどころではなかったラーシュはあやふやな記憶だったが、フレドリカは聞き逃さなかったらしい。 「……ヴィゴ」  男は一度目を瞑ると、観念したようにファミリアを呼び出した。  背の後ろでわずかに影が揺らいだ気配がして、黒いもやの中から現れたのは小さな男性の人型をした妖精だった。  険しい男目元と対をしたような暗い瞳が印象に残るくらいの小さなファミリアだ。神々しい姿でもなければ、闇のファミリアらしい禍々しいオーラもしないし、着ているものだって宿主のの下男が着ているのと同じようなもので、フレドリカみたいに一見して特別な感じはしない。  ラーシュは、それがどうしたと隣のフレドリカを振り向こうとしたが、そのときにはもうそこに彼女はいなかった。拗ねて姿を消すときのような、それよりも速いくらいの俊敏さで宙を駆け抜けていた。 「ああっ、やっぱり! これよ、ついに見つけたわ! あたしの運命! あたしの片割れ!」  びゅううん。どがーん。いっそ間抜けなほどの高速で飛んでいって抱きついたかと思うと、その勢いでそのまま後ろに倒れ込む。  もちろん状況に置き去りにされたのはラーシュだけではない。フレドリカの奇行をある程度は見知っているはずのアルネも、突然連れてこられたエイナルも、よくわからぬまま押し倒された小さな闇のファミリアでさえ、苦しげにバタつく脚に動揺が現れている。  意味がわからない。二回目に心で呟いた言葉が、そろそろ声として出そうになったときだった。 「はあ? 運命ってなに……、あっ?」 「ぐっ……」  ふたりが膝をつくのは同時だった。  正面にいたエイナルと、床に落ちていきながら目があった。 「ちょっ、ラーシュ様っ?」  稲妻に全身を打たれたのかと思った。次に、深い水の中へ落とされたかと思った。そうでは無いと理解したのは、背中の骨をひとつひとつ裏返しにされるようなぞわりとしたものが駆け抜けていったからだった。  頭から指先まで痺れて、力が抜けているのか、硬直しているのかもわからない。この感覚には覚えがあった。昨日見た夢ので煙に巻かれたときも同じだ。苦しくて、甘ったるい、腐った果実のようなあの煙。あれが鼻先を掠めた気がした。 「えっ待っ、……待って待って待って」 「どうされたのです? 御加減が?」  アルネの心配そうな顔が近くにある気がする。でもわからない。何が起きてるのかも、どうなるのかもわからないけれど、これはアルネに見せてはいけないものだ。咄嗟にそう思った。 「いい、いいからっ、出てって!」 「ですが……」 「アルネ、部屋の、外に! これは命令だっ」  強い拒絶も、命令も、普段ラーシュが絶対にしないものだけに言われれば付き人としては断れない。そうわかっていた。一瞬の逡巡の後、ばたんとドアが閉まるのが聞こえて、荒く息が漏れる。  同時に向かいからも同じような吐息が聞こえてくる。エイナルだった。すこし目の縁が赤くなっている。 「おい! これはどうなってる!」 「わかんない! おれもわかんないって……」 「あいつか……?」 「フレ、ドリカ……?」  無理やりに床から引き剥がした視線を向ければ、相変わらず闇のファミリアはフレドリカに押し倒されているところだった。だが、それに馬乗りになる彼女のちいさな背中はなんの衣も纏っていなくて、ぎょっとする。 「ばっ……! おい、なにや……っ」  それはたぶん駄目なやつだ。神殿の中で行ってはいけない類いの。  フレドリカは大きさこそ手のひらくらいしかないが、立派に成人女性の体つきをしている。普段異性と交わらぬよう離れて暮らしている身には目の毒すぎて直視できない。  しかし、彼女の奇行を押し留めようとするラーシュを嘲笑うように、肉体に直接、新たな快楽が押し寄せてくる。どこを触られているとか、そういうはっきりとした感触がないからどこが気持ちいいのかは分からない。ただ、快感のるつぼにたたき落とされたようで息が苦しい。全身が毛穴まで震えていた。 「あ、いや、いやだ……! な、んか、っはいって、くる……」  見知らぬ感覚に、目のふちに涙が浮かぶ。内側がじわじわと侵食されていて、体が中側から膨らまされているみたいに感じる。痛みが無いのが不思議なくらいだった。  気持ち悪い。喉が詰まったみたいに呼吸が止まる。それなのに頭が、腹のなかにあるものに快楽を感じているからおかしくなりそうだ。 「いや、っやだ……」  床についた膝がさらに崩れて、敷き詰められた絨毯に体が沈みそうになる。きっとアルネは命に応じて部屋を出て行ったけれど遠くには行ってない。だから大きな声は出したらいけないのに、自分の声が今どうなっているのかもわからないのだ。 「っ、う……」 「おい!」  なんでもいい、誰でもいい。声と気配を頼りに、縋るように手を伸ばしたら何かに触れた気がした。溺れた人間が藁を掴むように必死でそれにしがみつくと、その暖かさに安堵する暇もなく、最後の衝撃が訪れる。  脳天が弾ける。同時にふっと体が軽くなる。下着が濡れる感触が気持ち悪い。最後に浮かんだのはそんなどうしようもないことだった。  自分がぎゅっとにぎりしめたのが誰の手だったのか、頭が理解する前にラーシュの意識は彼方へと薄れて行っていた。
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