第六章

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第六章

 私は、兄に半ば引きずられるようにして地下室の出口へと向かった。力づくで振り解こうという気は起きなかった。変身後の人狼がいかに凶暴かは、よく知っている。  そこで私は、変身後だというのに兄は随分と普通に会話できるのだなと思った。    姿が獣になっても思考能力が保てることは知っている。だが、私自身が変身した時の経験から考えると、変身後の人狼であれば、自分の意見に反駁された時点で逆上して相手を殺そうとする方が自然だ。  変身後に怒りや憎しみを抑えることは、それほどまでに難しい。あの夜の父も、そんな感じだった。  しかし今の兄は、せいぜい少し気の短い人間程度だ。 「……兄さんは、随分と怒りを抑えるのが上手いんだね」  腕を引かれ進みながら、そう聞いてみると、兄はちらりとこちらを見て言った。 「俺は怒りや憎しみを抑えているわけじゃない。何度も変身していると分かってくるが、この姿になった時、そういったものを抑えようとしても絶対に無理だ。だが、今暴力をふるうことで、最も憎い奴を最も苦しめるのに支障が出ることを考えれば、刹那的な暴力衝動に身を委ねずに済む。憎しみ()抑えるんじゃない。憎しみ()行動を抑えるんだ」  そんな話をしているうちに、私は外に連れ出されてしまった。うっかり満月を見てしまわないよう、私は顔を伏せる。 「このガキが誰だか知ってるか?」  兄が指さす先を見ると、そこには縛られた三歳くらいの幼児が転がっていた。  私は首を横に振る。実際、私はその子を見るのは初めてだった。  だがそれでも、それが誰だかは分かった。その顔には、養父の面影が色濃く出ている。あの人の子に、間違いなかった。    そんな私の思考は、そのまま顔に出てしまっていたのだろう。兄はこちらを見て、にやりと笑った。 「やっぱりあいつの子か。あいつ自身がいないのなら、代わりにこいつを俺の手でぶち殺してやろうと思ってたんだが、さっき気が変わった」  そう言うと兄は、私の頭を掴み、抵抗する間も無くいきなり上を向かせた。  目を瞑ろうとしたが、一瞬遅かった。私は、見てしまった。煌々と輝く、満月を。 「あっ、あああああああああああああああああ」  思わず、顔を押さえる。その顔が形を変えていくのが、掌の感触で分かった。その手からも、剛毛と鋭い鉤爪が生えてくる。 「そのガキはお前の好きにしろ。変身すれば恨みや憎しみは増幅されるが、元がゼロなら増幅しようがない。お前がもし本当に、あいつに心から感謝していて、恨んでも憎んでもいないなら、そのガキに何もせずにいられるはずだ」  そう言うと、兄は身を翻した。 「俺の目があると気になって自由に決めにくいだろうからな。俺はこの家の敷地を出たところで待ってる。俺といっしょに来るつもりなら、夜明けまでに来な」  後半はほとんど頭に入ってこなかった。その時既に私は、湧き上がってくる怒りと憎しみを抑えようとするので精一杯だったのだ。  そうだ。  本当は最初から分かっていた。心の奥底では、自分がずっと養父を憎んでいたことを。
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