第一章

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第一章

 全てが変わってしまったあの満月の夜のことは、よく覚えている。    窓から外を見ていた父の顔がみるみるうちに獣のそれに変わり、何が起きているのか理解できず呆然としていた母の喉笛をいきなり食いちぎった。  獣は続けて兄に襲いかかり、私はその隙に逃げ出した。兄を見捨てたことになるが、当時まだ十歳だった私には他にどうしようもなかっただろう。  だが、子供の足で獣から逃げ切れるはずもない。何歩も進まないうちに、私の体は背後から地面へと押さえつけられた。  生暖かい液体が首筋に滴り落ちてくるのを感じた。当時の私はそれを獣の(よだれ)だと思ったが、もしかしたら母や兄の血だったのかもしれない。  逃げようともがいても身動き一つ取れず、なんとか首だけを動かして背後へと目を遣る。  少し前まで父だった獣が私の腕に鋭い牙を突き立てるところが、ちょうど目に入った。  痛みに悲鳴をあげる。  獣は咥えた腕を凄まじい力で引っ張った。  腕が引きちぎられる――そう思った時、銃声が響き、唐突に腕が放された。直後、背中を押さえつけていた力も無くなった。 「逃がすか!」  叫びとともに、再度銃声があたりに響き渡る。そして背後で、どさりと何かが倒れる音がした。  私は地面に掌をつけ、無事な方の腕に体重をかけて起き上がった。そして背後に顔を向けると、そこには獣が倒れていた。  足音が近づいてくるのが聞こえた。 「念のため見回りをしておいて正解だったな」 「この近辺ではもう長いこと人狼は出てなかったんですけどね」  そんなことを話しながらやってきた二人の男は、私のすぐ傍で足を止めた。  額に押し当てられる冷たい感触。二人組のうち年嵩の方、頭が総白髪の男が私に突きつけているそれは、銃だった。 「何をやってるんですか、師匠!?」  若い方の男が、声に狼狽えを滲ませて叫ぶ。白髪の男は自らの相棒には目も向けず、冷たい視線をこちらに注ぎ続けていた。 「見てなかったのか? こいつはさっき、人狼に噛まれていた。三日もすれば、こいつ自身も人狼となり、次の満月の夜には新たな被害者を出す。そうなる前に、始末せねば」  白髪の男は引き金を引こうとしたが、若い方の男がその手を押さえた。 「まだ犯してもいない罪を理由にこんな子供を殺すなんて、間違っています。それに、本当に人狼になるかはまだ分からないでしょう」 「人狼に噛まれた者が人狼にならずに済んだ例は無い」 「今まで報告が無かっただけかもしれません」  白髪の男は、己の相棒を冷たい目で睨みつけていたが、やがてため息を一つ吐き、諦めたように首を振った。 「分かっているとは思うが、こいつが人狼になった場合、満月の夜だけ気をつければ良いというものではないぞ」 「はい、もちろんです」  若い男は屈み込み、私と目を合わせると、にっこりと微笑んだ。 「もう大丈夫だからな」  そして、腕の噛み傷の手当てを始めた。しかし大丈夫と言われても、私は少しも安心できなかった。  白髪の男が、相変わらず刺すような冷たい目でこちらを見下ろしていたからだ。その表情は、いつ「やはり殺そう」と言い出してもおかしくないように思えた。    しかし結局そのようなことはなく、手当てが終わった後、私は馬車で大きな屋敷へと連れて行かれた。意外にもと言うべきか、それは若い方の男の家だった。
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