エピソード『後ろの気配』 第1話 初老の男の気配

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エピソード『後ろの気配』 第1話 初老の男の気配

 祝詞を奏上している最中に気配は感じていた。 「……祓へ給ひ清め給へと。白すことを聞こし召せと。恐み恐みも白す」  途中で消えるのかと思っていたが、祝詞が終わってもそこに居続けていたため、稲荷原流香(いなはら るか)はおもむろに身体の向きを変えて、向かい合うことにした。  本殿の中は狭いためか、流香とその者との距離は意外と近かった。  紺のスーツをきっちりと着こなした初老の男性が背筋をすっと伸ばして正座をしていた。  流香は右目のみで初老の男を表情を殺してじっと見つめる。  左目は眼帯に覆われているため、見る事ができるのが右目だけという事もあった。  流香が話を聞く気だと思ったのか、初老の男は礼儀正しく一礼をした。  流香も礼を返して、初老の男が話すのを待った。  賀茂美稲荷神社(かもみいなりじんじゃ)は東京都北区言実町、どちらかといえば赤羽よりの場所にあり、狐の行列が行われる王子が近いという事もあってか、それなりに有名で参拝者も多い。  稲荷原流香はそんな賀茂美稲荷神社の宮司の次女として生まれた。  次の宮司を務める事になったであろう姉が亡くなってしまったため、後を継ぐために流香は日々精進しており、流香は朝の五時半に起き、六時に賀茂美稲荷神社の本殿の中で祝詞を奏上するのが日課としていた。  本来ならば、宮司である父親がやるべきなのだろうが、姉の死を知ってからというもの体調を崩して病で伏せっており、神事が一切できなくなっている。  この日も流香はその日課をこなしていた。  その最中に気配が入ってきたものの、よくある事なので放っていた。  参拝者ならば拝殿において略式参拝をするのが常で、何か思いがある者などが本殿に上がってきて、奏上している祝詞に耳を傾けている事がまれにあった。  今日もそういった類いだと思ったのだが、それではなかったようだ。 「……清らかな祝詞に誘われて、ここにいた失礼をお詫びします」  初老の男は再び頭を下げた。 「聞いていると、名残が消え始めました。しかし、全ては消えはしなかったのです」  流香はこくりと頷く。 「気にかかって仕方がないです。あの男が死んでいるかどうかが」 「あなたが殺しでもしたのですか?」  流香がそう言っても、初老の男は過度な反応は示さなかった。 「……いえ。私を殺そうとして巻き込まれたといったところでしょうか。あの男の遺体は見つかっていませんし、未だに行方不明のままなのです」 「子細は結構です。私は探偵などではなく巫女ですよ? そのような事が調べられると思っているのでしょうか?」 「死んでいるのであれば、あの場所に魂が留まっているのではないかとそう思うのです。あの男の魂がまだそこにいるのか見てきて欲しい。それだけです。無理難題をふっかけていると思いますが、可能でしょうか?」  流香は目を細めて、初老の男を睥睨しながら、その真意を探ろうとする。 「当然お礼はいたします。幾ばくかのお金は添えられていましたので」  初老の男はすまなそうな表情をして頭を掻いた。 「お礼ではなく、初穂料ならば受け取れます」  流香はにこりともせずに言う。 「でしたら、初穂料で収めますので、どうか……どうか……」 「あの場所とはどこなのですか? 行ってはみますが、死んだかどうかの判断はできかねます」  流香は表情を表には出したりはせず、無表情を貫いた。 「ありがとうございます」  初老の男は深々と頭を垂れた。 「場所は某県にある荒垣山です。山頂付近で滑落事故を装って殺そうとしていたのですが、滑落してしまい、そのまま行方知れずに……」  その言葉も頭を上げずに言った。 「荒垣山ですね、分かりました。調べてみましょう」 「……ありがとうございます」  そこでようやく初老の男は頭を上げて、着ているジャケットの懐に手を入れて、封筒を取り出して床に置いた。 「よろしくお願いします」  またお辞儀をするなり立ち上がり、本殿内から足音も立てずに静かに退去していった。 「本当にいいの? 姉さんがしろっていうからするけれども、面倒事は嫌なのだけど。例え、魔法の残香があったとしても……」  男の気配が境内から消えてから、流香はぼそりと呟いた。  あの初老の男には魔法による損傷のようなものが見受けられていた。  だからこそ、魔法を使った『何か』が及んだのだと想像に難くなかった。 「姉さんが興味あるのならばいいのだけど……」  稲荷原流香が眼帯で隠している左目があったところに、今は死んだ姉である稲荷原瑠羽の魂が居座っているというのだ。  それは稲荷原流香本人の主張であり、その真偽を確かめた者は今のところいない。  時として、流香はその姉と何かしらの手段で会話をしているらしい。  そのことについても、流香本人しか理解しがたい事であった。  本当に姉の魂が左目に居座っているのか、知る者は流香のみである。  流香は立ち上がり、本殿と拝殿とを隔てている引き戸を開けて拝殿へと出た。  すっと視線を流すも、拝殿にも境内にも初老の男の後ろ姿はもうなかった。
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