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嵐の後の静けさに
その後はよく覚えていない。気がついたら全て終わっていて、私はやっと体の力が抜けた。本木先生が私の中から、自分の吐き出した欲望をかき出してくれた。前はそれが欲しかったのに、今は私の中で動く指が気持ち悪かった。
その上、トイレの中に血が落ちているのがちらりと見えて、なおさらに気持ちが悪かった。
本木先生は冷静に、トイレットペーパーで自分を綺麗にしていた。
この時、私は初めて人に負けたと思った。
私が何もする気がないから、本木先生は服もきちんと着せてくれた。その後、自分もきちんと服を着た。二人とも、わずかに服が乱れていて、汗が独特の芳香を放つ。
それでも見た目は、何事もなかったように。
私は上手く立てなかった。あんなに体に力が入っていたのに、今度は全然入らない。お腹のあたりが、生理痛のようにズキンズキンと波打っている。まるで、数分前の興奮を繰り返そうとしているみたいだ。
私がよろけると、本木先生は優しく抱き締めてくれた。それだけで、やっぱり背骨が折れそうになった。
私も前と同じように、筋肉のついた綺麗な首に腕を絡めた。
身長差の分だけ私が浮ういてしまうから、本木先生は背を少しだけ屈めてくれた。そして、優しく髪を撫でてくれた。私の髪は、このためだけに伸びていたんじゃないかと思うくらいに、サラサラと音を立てた。
それにしても、考えってものがないわ。
「・・・先生」
「何だ?」
「病気のほうはまず置いておくとして、女の人は必ずとは言わないけれど、避妊をしなければ妊娠します」
「ああ」
「今、私と先生は避妊について何も考えずに行為に及びました」
「ああ」
「これが、どういう結果をもたらすか、予想できませんか?」
「できるよ」
「それならどうして、せめて外に―――」
温かで柔らかな唇が私の言葉を遮った。
本木先生のキスは、貪るようでじらすような、優しくて激しいキスだった。舌も侵入してきて、口腔の上をなぞられると、ガクンと残りわずかな力も抜けた。でも、大丈夫。私は今、温かな胸の中にいるのだから、どうなっても立っていられる。
口で息をすることがもったいない、ずっとこうしていたい。神様はこのために鼻を作ったのね。すごいなあ、ちゃんと考えているのだわ。
それでも、やっぱり息苦しくなってきた。神様はいつも意地悪だ。
本木先生が唇を離すと、白糸が伸びて、切れた。悔しいことに、私より上手く糸を引かせたような気がした。
「君は薬を飲んでいるだろう?」
私は驚いて、肩を緊張させた。
「どうして?」
「部屋に行ってテレビを消した時、机の上に産婦人科と書かれた薬袋が君のすぐ傍にあった。君の歳で産婦人科の薬といえば、修学旅行に月経が重ならないようにするための調整薬だとわかる。ディドゥユーアンダースタンド?」
「・・・オッケー」
なるほど。あれがピルだって知ってたわけね。やるなあ。でも、私は負けっぱなしになることを好まない。それが私のスタンス。
「先生」
「何だ?」
「先生、高井さんと寝たでしょう?」
本木先生は呆れ顔。あれ?違ったのかなあ。
「・・・どうして?」
「高井さんは今日、自分の初体験の話をしていました」
「それで?」
「高井さんは、好きな人と一緒になりたいって言いました。先生が部屋に入ってきた時、高井さんは世界で一番幸せっていうような笑顔をしました」
「・・・」
「その後、高井さんは『私を襲いに来たいんでしょう?』って先生に言いました。おかしくないですか?みんながいるんだし、あの場合のノリから言って、『私たち』って普通は言います。自分だけを限定しません」
「・・・ああ」
「またその後、高井さんは先生に『ラマン』の感想を聞きました。普通の先生に対しての言葉なら、エッチとか信じられないとか、まあそれぐらいでからかいます。それなのに、高井さんは先生個人の感想を聞きたいと思っていました。つまり、高井さんは先生と―――」
またキスをされた。今度は唇を重ねただけの、優しいキス。
「ちょっと、まだ話は終わってません!」
「わかった、君の言い分はよくわかった」
そう、なら認めるわけね。少し気が晴れたわ。
「そうだなあ・・・半分当たっていて、半分違うな」
「え?」
「高井は僕に告白した。でも僕はそれを断った」
「もったいない!どうして?」
「もったいないって・・・君は一体どういう考え方をしてるんだ?」
「普通の考え方です。アーユーオッケー?」
「ノー。僕は彼女に『そういう対象では見られない』と言った」
「正直な答えだけれど、無神経な答えです。せめて、道徳観念で逃げるべきだったわ。それじゃあ高井さん、というよりは女性に対して失礼極まりない台詞です」
「・・・なるほど。とにかく、僕は断った。だから彼女は他に好きな人が出来て、その彼と寝たんだろう」
そうかしら?そんなに簡単に事が進むほど、私たちは子供じゃないわ。だからといって大人でもない。彼女はものすごく真面目よ。
だから正直言って、彼女があんな話をするとは思っていなかった。純情とか奥手とかじゃなくて、もっと自分を大事にする人だって思っていた。それをみんなの前で誇らしげに語るなんて、少し心配した。
「ちょっと違うような気がするわ」
「ああ?」
「彼女、先生に振られた原因が、自分が子供だからだって思ったんじゃないかな?」
「・・・まさか。それで彼氏と?」
驚愕ってこの事を言うのね。面白い顔だな。首から手を外して、頬を触ってみた。顔の筋肉が強張っているのがわかった。
「私たちって不思議なの。好きじゃなくても、『彼氏』は持てるものなんですよ」
「・・・」
今度はものすごく心配そうな顔。そうよね、そんな態度で相手に体を許した彼女を、心配しない人なんていないわ。それに本木先生は、これでけっこう生徒思いだからショックよね。それでも、この件に関して言えば責任を取れといわれても、これは彼女と先生の個人的な問題だもの。教育うんぬんの問題じゃないわ。一体誰か非難できるのかしら。
「でも・・・たぶん彼女はまだ『した』ことないですよ」
「は?」
「だって。普通、自分の初体験の内容を詳しく、実況中継みたいにクラスの女の子達の前で話します?『あるよ』って言うだけでいいじゃないですか。そっちのほうが、真実味があります」
「そりゃあ・・・」
「話すとしたら、みんなが寝静まった頃に、限られた人たちだけにしますよ。それを明るい所で堂々と、親友でもない人もいるのに、まるで選挙演説です。私たちの噂話って、明日には学校中に広まっちゃうほど酷いの。わかります?根も葉もない噂だって立つし。そういう事が大好きだっていう人なら、全然話は別ですけど。彼女、そういうことに平気でいられるタイプじゃないんです」
「それは・・・彼女が嘘をついてるってこと?」
「彼氏がいるのは事実だと思うし、絶対にそうだとは言えないけど。まあ、見栄ってこともあるんじゃないかしら。先生に振られたのが、よほどショックだったんでしょうね」
「なるほど・・・」
本木先生は少し悲しい顔をした。
「つまり、彼女は噂が広まることによって『自分は子供じゃないんだぞ』って先生に言いたいわけです。先生が言うところの『そういう対象』で見られたい。結論的に言えば、高井さんは先生のことをまだ想っているわけです。私たちは賢いけれども、一方で愚かです。それで自分の世界が変わると思っています。確かに何かは変わるでしょうが、全てを変えることはできません」
「・・・ああ」
そう呟いて、本木先生は私を解放した。私も自分の足をしっかりと床に着けた。少しぎこちないけれど、もう一人で歩けるだろう。
「先生、今何時?」
本木先生が腕時計を見て、照れくさそうに言った。
「四時過ぎてる・・・」
「すると・・・」
私は天井を見ながら、指折り数えた。本木先生がその指を掴んで苦笑した。
「時間を計算するな」
「オッケー。それともう一つ。どこでわかりました?」
「何が?」
「え?だから・・・その・・・私が・・・」
これはさすがに照れるわ。だって、あれほど研究したのに。
全部終わったら、わかってしまった。私がキスをした時も、本木先生のものを口に入れた時も、どうして無言だったのか。
あれは、つまり―――。
私が下を向いて、難しい顔をしていると、本木先生は急に笑い出した。
「ああ。そうだね、舌使いとその行為全般かな?」
悔しいったらないわ!
「だってそうだろう?技巧的な問題は置いておくとしても、そういった職業の人とか、長く付き合っている恋人や、恋愛をそこそこ重ねた年代の人ならいざ知らず、いきなり口でするなんて。君の歳を考えれば、ああこれは雑誌か何かの影響で、君はまだ処―――」
「あー!もうわかったわ!オッケー」
恥ずかしくて、顔から太陽が生まれそうだわ。さっさと部屋に戻って寝よう。これから四時間後には、歩きっぱなしの一日が始まるんだから。
足を前に出すと、体が軋んだ。でも大丈夫、私は一人で歩けるわ。
「大丈夫か?」
後ろから優しげに声がかけられる。余計なお世話よ、誰があんたなんかに助けてもらうものか。
もうこうなったらエレベーターを使ってやろう。バレてもいいや。叱られるのには慣れているわ。
ボタンを押そうと思ったら、後ろから腕をつかまれた。
「こら!エレベーターを使ったら、他の先生に見つかるぞ?」
「あら?私は全然かまいません」
「まったく!」
本木先生は眉を釣り上げた。この先生、今日は本当におかしいわ。いつもは鉄仮面のくせに。いつも冷静な私も、今日ばかりはおかしいけどね。
しばらく睨みつけていると、本木先生は大きなため息とともに私の体を抱えた。私はバランスを崩して床に落ちないように、クシャクシャ頭にしがみついた。
私を抱きかかえたまま、階段を昇り始める。しっかりとした足取りが、私の体にも響いてきた。
「先生」
「何だ?」
「大丈夫よ。私は一人で歩けるわ」
「信用できない」
「別に信用されなくてもけっこうです」
「・・・佐和」
「はい、何でしょう?」
「君はさっきから、僕がどうして君を抱いたのかという初歩的な質問をしない」
「え?・・・そういえばそうね。でもそれはいいの」
「・・・どうして?」
「私が向き合っていたのは欲望の塊だから」
「だから?」
「あれには明確な意志も確固たる人格も関係ない、欲望だけが抽出された形だもの。私も持っているし、先生も持っている。ディドゥユーアンダースタンド?」
「ノー」
「あら、意外に馬鹿ね?」
「君のほうが馬鹿だ。そういうのを昔から『耳年増』という」
「失礼ね!」
二階に到達。あと二階分の階段がある。本木先生は大きく息を吸うと、また昇り始めた。
「もし僕が、『君を抱いたのはそこに性欲を満たす都合のいいものがあったからです』と言ったら、君は納得するのか?」
「酷い言い方!ものすごく失礼だわ」
本木先生は嬉しそうに笑った。
「なんだ、気にしてるんじゃないか」
「してません!思っていても言わないことが、礼儀でしょ?」
「なるほどね・・・。もう一つ訊くが、君はどうして僕に抱かれたんだ?」
真剣な顔が私を覗きこんだ。あまりにも真摯な表情だったから、少し戸惑った。きちんと本当の事を言わなくてはと思いながらも、何となく悔しくなって唇をかんだ。
「・・・人の欲望がどんなものか端的に見たかったの。でも、最終地点まで行くことは望んでいませんでした。これは本当に!」
ころころ変わる顔だこと。今度はひどく悲しそうな顔。
「それは・・・悪いことをしたね」
「今さら言われても遅いです。まあ、別にいいです。教育委員会にも言いませんし、誰にも言いません。責任を取れとも言わないわ。私のことは自分で責任を取ります」
「・・・佐和」
「はい、何でしょう?」
「君は他人と自分という関係や、恋愛というものに関心がないんだね」
「は?まさか!関心がないのなら、あんなことをわざわざ動画まで見て研究しません」
「動画ね・・・あまり感心しないな」
「あら?じゃあ先生は、ぶっつけ本番でテストに向かう生徒を容認するの?受験の時に勉強もしていないのに、無責任に『頑張れ』とでも言うわけ?とんでもない!」
「君が言うと、妙に説得力があるね」
「・・・だから絶対に、自信があったのに」
「百聞は一見にしかず」
「ノー。百見は一体験にしかず」
「なるほど。さあ着いたぞ。立てるか?」
最後の振動。自分の足が床に着地する。
「初めから立てると言っているでしょう?それじゃあ、ごきげんよう。おやすみなさい。松岡先生たちにバレないようにね」
「ご忠告、どうも。おやすみ」
「それと、おはようございます」
「あはは・・・」
私は本木先生を一度も振り返ることなく、自分の部屋へと歩いていった。でも後ろで、ずっとこちらを見て立っていることは気配でわかった。
部屋に静かに入ると、枕とバッグを取り出して自分の布団に包まった。主人のいなかった布団はとても冷たかった。さっきまで熱かった自分が嘘のように感じられる。
あれは夢であり、実際にはなかったことに違いない。
いつのまにか、私は声を殺して泣いていた。体の痛みは、ずっと続いていた。
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