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馬も鹿も
朝起きると、私はボロ雑巾のようだった。気力もないし、疲れきっていて、自分なんか死んでもいいというぐらいにだるかった。
みんなが心配して布団を覗きこんでいくから、泣きたくなってきた。
私は昨日、とても酷い目にあったのよ。
だってそうじゃない?初体験の場所がトイレだなんて、誰にも話せないじゃない。全然ロマンチックでもなかったし、素敵な夜景もなかった。恋人でもない人と、微少の言葉と大量の無言で欲望と向き合っただけの、寂しい小さな空間。
わかってはいるの。私が浅はかだったということは。自分を最後までコントロールできるって思ってた。ずっとこれは自分の支配下にあるものだって。
昨日、私は初めて人の支配を許した。
それがホテルのトイレでした。泣きたくなるのも当然よね。
別に、本木先生に文句があるわけじゃない。だって、少なくとも私を優しく抱き締めてくれた。あれで、私はずいぶんと楽になった。
ただ、私は明日から何を信じて生きていけばいいのかしら。絶対だと思っていた神様に裏切られたような気分よ。
私は何にも負けないはずだったのに。まさか雰囲気に飲まれるなんて。しかも絶対に許容できないような場所で。本当はもっとずっと、自分の思いどおりにきちんとしたかったのに。
欲望なんて私の中から出ていっちゃえ。
自分がプライドの高い人間だという自覚はあった。だから、自分が許せなかった。
ああ、もう私の人生は終わったなあ。これに懲りて、二度と人に体を許すのは止めよう。尼さんにでもなろうかな。寂庵先生みたいにさ。
ゆっくりと体を起こす。
「佐和、大丈夫?」
高井さんが声をかけてきた。その心配そうな顔を見たら、昨日の事を思い出してしまって泣きたくなった。
どうか私みたいになりませんように。もうちょっと自分を大切にね。
「オッケー、大丈夫よ。ちょっと眠いだけ」
精一杯、いつも通りに返事をする。すぐに彼女もみんなも、いつもの騒がしさを取り戻した。
軽く伸びをして、目を覚ます。私だけ布団を引きっぱなしだったことに気づいて、慌てて畳んだ。背を丸めた時、お腹が痛かった。
着古した制服を身にまとえば、昨日と変わらない私。
鎧を着た私は強い。
ザッツライト、他人対自分には興味がないわ。あるのは自分対自分よ。
これさえ押さえておけば、大丈夫。
みんなと一緒に、朝食を食べに大広間に移動する。その間、歩くたびに体が軋んだ。私の決心を揺るがすように。
「本木せんせーい!おはよーございまーす!」
「はい、おはよう」
隣りにいた友達が、本木先生に声をかけた。返事が私の耳を打つ。顔なんて見れるはずがない。朝から憂鬱だわ。余計なことしないでよ。
挨拶する気力もないので、当然無視した。
「佐和。挨拶は?」
何事もなかったように声をかけてきた。最低だ。
「おはようございます。今日もご機嫌麗しゅうございますね」
「・・・何か棘があるね?」
「普通です」
もう一言も話したくない。さっさとご飯を食べて自主研修に行って、今日は早く寝てしまいたい。
本木先生の首から上は見たくなかった。そこにあるのは明確な意志も確固たる人格も持たない、ただの欲望の塊だ。
足早に大広間に入って席に着くと、松岡先生から、元気がないぞと声をかけられた。私を見れば必ず言うのだから、うるさい。元気があるぞって言った事なんてないじゃない。寝不足ですと適当に返事をすると、今度は小宮先生がやって来て、君たち神戸のほうに行くんだってねと、研修内容を聞いてきた。余計なお世話だから、班長にまかせてあるからおみやげは班長に頼んでねと言った。
この二人は私の天敵だ。いつも注意される。修学旅行だからって羽目を外させないようにと、見張っているのだわ。出来の悪い生徒で悪うござんしたね。
友達はまだ、本木先生と話していた。時々、ちらりとこちらを見る。本当に憂鬱。
全員が揃うと、一斉に合掌をして食事が始まった。カチャカチャと箸と茶碗のぶつかる音が、大広間に溢れていく。ベルトを外す時の音を大音響で聴いたみたいで、急に昨日の事を思い出して吐き気がした。全ての音が、私を責めている気がした。
「う・・・」
「どうしたの、佐和?」
「悪い、ちょっと部屋に戻るわ」
「大丈夫?保健の先生、呼ぶ?」
「平気。昨日眠れなかったから、ご飯が入らないだけ」
「ならいいけどさ。本気で自主研、大丈夫?」
「オールオッケー」
それだけ言い残して大広間を出た。階段の近くにあるエレベーターのボタンを押す。扉が開き、自分をやっとの思いで押し込めた。昇り行くエレベーターの速度が、やけに遅く感じる。
部屋に戻って座布団の上に座ると、また泣きたくなってきた。勢いに任せて後ろに倒れ、体を丸めて足を抱えた。驚いた、私はこんなに脆くも崩れ去っていくのか。
「パトラッシュ、僕はもう疲れたよ」
本当に、今ならネロの気持ちがよくわかる。
「佐和、そのアニメに特別な思い入れでもあるのか?」
飛び起きて真正面を見上げると、本木先生の澄ました顔がそこにあった。
自分の顔が自然と歪んでいくのがわかった。
「先生はストーカーですか?」
「は?」
「私の何が気に入らないの?いちいち、言うこと為すことにケチを付けないで下さい!」
「あのなあ、心配して見に来てあげたんじゃないか」
「『あげた』?なんて恩着せがましい!けっこうです、余計なお世話!」
「恩着せがましかろうが余計なお世話だろうが、今日の自主研修は休みなさい」
「『なさい』!?私に指図しないで!私に指図できるのは私だけであって、先生だろうが総理大臣だろうが神様だろうができないわ!」
「君は疲れている」
本木先生は、私のヒステリーにも動じなかった。いいわね、余裕があって。私を馬鹿にしてるのかしら。
「そうね、疲れてるかもしれませんね。でも、先生には関係のない事です!私が疲れようが死のうが生きようが、先生が痛いわけじゃないわ」
声のトーンが下がった。精神的に参っている証拠だ。情けない、苦労して作り上げた自分が消えていく。反対に、憎らしいくらいに冷静な顔が目の前にある。そして、昨日私を抱いた手がゆっくりと伸びてきた。
私は小さく悲鳴を上げた。
「ひっ・・・」
はっきり言って、怖い。どうしたんだろう、私。
本木先生はすぐに手を引っ込めた。よほど私が、恐ろしそうに体をすくめたからだろう。
「佐和」
「・・・」
「君が疲れているんだから、当然僕も疲れている」
「・・・まあ、そうかもしれませんね」
「君が死ねば、僕は心痛い」
「それはおかしいですね」
「君が生きていれば、心安い」
「それもおかしいですね」
「僕は君が好きだ」
「それは・・・」
言葉に詰まった。
馬鹿みたいだ、全然返事が出来ない。
ええっと、こういう場合は何て答えればいいの?頭の中がグルグルと回っていて、何も考えられない。目の前の顔が徐々に歪んでゆく。体がフワフワと浮いているようだ。
「佐和っ!」
どうやら意識を失っていくらしい。
後ろに倒れる前に、支えてくれたのだろう。本木先生の手が背中で温かかった。
結局、自主研修には参加できなかった。保健の先生が余計なことに、『貧血』という日本人女性なら四人に一人は持っている体質を、重大そうに通告したからだ。
グループのみんなが、おみやげを買ってきてあげるからと、あまり嬉しくないことを口々に言い、騒々しく出かけていった。いいなあ、アヒルの行進。私も参加したかったな。
自分の体ぐらい、自分で管理できる。だいたい、貧血なんて過去何度も倒れてるんだから、大したことじゃない。そりゃあね、修学旅行に来ているのだから、先生方の責任問題ってのもあるだろうけど。
自主研修には先生たちも出回る。一応監視というか、生徒たちが行きそうな所で見張っているのだ。だから、ホテルの中も静かだ。二、三人の先生しかいない。時々、思い出したように様子を見に来る小宮先生に返事するのが面倒で、足音が聞こえてくると寝たふりをしていた。そんなに私が信用できないのかしら。
つまらないから、読みかけの本に意識を集中させることにした。寝ながら、パラパラとページをめくる。お昼も過ぎてしまったのだろう、窓から太陽が見えなくなった。強い日差しだけが部屋に差し込む。
ああ、もう永遠に眠りたい。
全く読み進まない本を閉じて、布団をかぶった。それから、本木先生のことを考えた。
「僕は君が好きだ」
あんな言葉一つで、何も言えずに負けた。その上、無様に貧血で意識まで失った。ものすごく悔しい。
本木先生が帰ってきたら、言ってやろう。
「私は貴方が嫌いです」
あら、いまいちね。これじゃあ、好きだって言っているのと大して変わらないわ。
「私は貴方をそういう対象では見れません」
オッケー、これだわ。確かにこれは傷つくなあ。性別まで全否定された感じ。
ちょっと元気が出てきたな。
それに、かなりお腹が空いてきた。朝ご飯だって食べていないのだから当り前だ。小宮先生に言って、お昼を買ってこよう。それから、そのまま逃げてしまおう。
布団を蹴り上げて、飛び起きる。パジャマを脱ぎ捨てて、制服を着る。リボンを丁寧に結び、素早く布団を畳むとバッグを引っ手繰り、部屋を飛び出た。
と思ったら、誰かとぶつかった。自分の持っていた勢いが全部跳ねかえってきて、後ろに弾かれた。でも、床に落下するようなことはなかった。
温かい手が私を支えていた。
「佐和・・・前を見て歩いてくれ」
どうして、こういう時にいるのだろう。この先生は!
「すみません。若いので向こう見ずなんです」
「それは上手い表現だ」
「でしょう?もう大丈夫だから、放してください」
「ああ」
本当は、触られるのも嫌なんだから。そのまま床に倒れていたほうがまだマシよ。
本木先生は大した衝撃も受けなかったらしく、澄ました顔をして立っていた。手にはコンビニの袋を下げている。どこかの下宿生みたいだ。そういえば、何歳なんだろう。今まで大して気にもしなかったわ。
私が物珍しそうに見ていたのが嫌だったのか、本木先生は急に目をそらした。
「どこに行くつもりだったんだ?」
「先生には関係ありません」
「君にはドクターストップがかかっている」
「空腹は病気ですか?」
「・・・なるほど。ちょうど良かった。お昼を買ってきたから、一緒に食べよう」
何を言っているの?私は外に出たいの。死んでも、あんたなんかと一緒に食べたくないわ!
「けっこうです。私、好き嫌い激しいですから」
「なら、欲しいものを買ってこよう。だから、今日一日はホテルでじっとしていなさい」
『なさい』ってまた言ったわね!
「そうですか?それなら、懐石料理」
「あのね・・・」
「フランス料理!イタリア料理!中華料理!」
「イギリス料理は?」
「それは嫌いです!」
「わかった、今度連れていこう」
今度?今度なんてないわ。
さっきまでの元気も冷静さも、全部吹っ飛んでしまった。悔しいことに、本木先生の前では自分を保っていられない。息が切れてきたわ。
「・・・もういいです。普通にサンドウィッチでけっこうです」
「そうか。素直でいいね」
誉められたって嬉しくない。
足を鳴らしながら部屋に戻った。他の先生は何してるのかしら。か弱い乙女がピンチなのよ、ちょっとは救いに来てよ。
「・・・他の先生たちは?」
「下で食事してるよ。小宮先生と巡回の交代をしに帰ってきたら、保健の先生から君の昼食係を仰せつかったわけ。ディドゥユーアンダースタンド?」
「アイロスインターレスインマイライフ、フロームザボトムオブマイハート!」
「ザッツホープレス」
本木先生はそう言って手を広げると、にっこりと笑った。
ムカツク。
着替えた制服が無駄になったと思ったけれど、あの時と同じ格好では挑みたくない。
仕方なく座った。本木先生も座って、なぜだか愉快そうに袋からサンドウィッチとおにぎりを取り出していた。別に、ドラえもんのポケットみたいに変わったものが出てくるわけじゃなし、何がそんなに愉快なのかしら。
「君、あんまり食べないだろう?弁当にしようかと思ったけど、量が多すぎるだろうと思って」
真正面に座って対峙すると、ものすごく反抗したくなるわ。
「別に。私、けっこう大食らいなんです。吉野家の牛丼の特盛りつゆだくを、平気で三杯はいけます」
「・・・何がそんなに気に食わないんだ?」
大きな手がサンドウィッチを差し出す。私はそれを掠め取った。
「全部!」
「気にしないんじゃなかったのか?」
「してません!お腹が減って不機嫌なだけよ」
ムシャムシャと豪快に食べてあげた。おとなしく上品に食べると思ったら大間違いよ。
本木先生は少し呆れていた。
「・・・わかった。君の意見を聞こう」
「『聞こう』?なんて高飛車な態度なの!」
「静かにしなさい。昨日と違ってすぐに誰かが飛んでくるぞ」
「『なさい』?」
「わかったよ!じゃあ、静かにして下さい」
「オッケー。まず、私が腹を立てているのは、先生に対してじゃないわ。先生は全く絶対に関係ありません」
「いやに力説するんだね」
「当り前です。私は、先生を特別な対象で見たことも、これから見ることもありません!」
強い口調で前から考えていた台詞を言ってやると、本木先生はひどく悲しそうな顔をした。これじゃあ、私が虐めてるみたいじゃない。
「・・・本気で?それは君の真剣な意見?」
「ザッツライト。ついでに、その『君』っていう呼び方も止めていただけませんか?虫唾が走ります」
「わかった。佐和―――」
「私の名前を呼ばないで!私に話しかけないで、私に触らないで、私に構わないで!わかった?」
言葉を挟む余地なく言ってやると、本木先生はかなり怒ったようだ。握り拳が震えている。大きく酸素を吸って、短く息を吐き捨てた。
「わからない」
「サイッテイ!馬鹿なんじゃないの?」
「そうだね、僕は馬鹿なんだろう」
「はあ?どうしてそこで否定しないのよ!?」
「本当に馬鹿だからだ。君がそんなに意固地で底意地が悪くて、最高にわがままで全然おしとやかじゃないって事を全く知らなかった」
「・・・」
何ですって?それじゃあ、まるで私が最低な人間みたいじゃない。酷い、酷いわ。私は、ただ自分を守りたかっただけなのに!
「佐和?」
「もういいわ。わかりました」
全部押し殺してやる。二度と自分を解放なんてしてやるものか。そう思ったら、顔の筋肉が動かなくなった。まるで鉄仮面みたい。
「オッケー、もう止めましょう。ごめんなさい、大声ばっかり出しちゃって。よくないわ、感情的になるのは」
「佐和―――」
「ちょっとう整理整頓しましょう。昨日、私は先生とセックスをしました。それから、先生は私を好きだと言いました。ここまではいいわよね?」
「・・・ああ」
「でも、私は自分のした事に何の意味もないことに気づきました。意味がないというよりは、有害極まりない行為だったのです。しかも、私は先生をそういう対象では見れません」
「・・・」
「結論的に言って、全部なかったことにしたほうが互いの身のためです。わかりました?」
「・・・わからないな」
「でも、それは先生の問題でしょう?私には全く関係ありません。自分で気持ちの整理なり、何なりつけてくださいね。以上!ああ、お腹が空いてきたわ」
「ちょっと待て。僕は君の話を聞いた。だから、君は僕の話を聞くべきだろう?」
本木先生はまだ怒っていた。
「オッケー。物事は公正じゃないとね」
「まあいいだろう。僕は君が好きだ」
「卑怯だわ。そう言えば、全て許されるって思っているの?」
「思っていない!」
大きな声。本木先生が大声を出してる。ありえない事だと思ってたから、心臓が殴られたみたいに痛かった。
「君が誘ってきた時、僕は正直言って嬉しかった。君を抱けるかもしれないって思った。その時は自分が教師だなんて忘れていた」
「・・・そのまま忘れちゃえば?」
「茶化すな!とにかく、僕は君を抱いた」
「素敵なトイレでね」
「・・・ああやっぱり、あんな場所で抱いたことが気に障ったのか?」
「あんなの、立派な強姦です」
「強・・・」
私を見つめていた視線は、あたふたと泳いだ。心配しなくてもいいわよ。誰にも話さないって言ったじゃない、馬鹿!
本木先生はやっと視線を固定させると、クシャクシャと頭をかいた。
「・・・それなら言うけれど、僕がきちんとしたベッドで君を抱いていれば、こんなに怒ったり、僕を拒否したりはしなかったのかな?」
「それとこれとは別問題です」
「僕がどうあがいても同じ結果かな?」
「たぶんね。わかりました?これでご理解いただければ幸いです」
「・・・そうか」
本木先生は小さく呟いて、そのままうな垂れた。
昨日私を抱いた体は、身動き一つ取らなかった。その上、誰もこの部屋にはやってこなかったから、音がなくなって寂しかった。
そのうちに、また澄ました顔で『わかった。君の言い分はよくわかった』って口癖を言うに違いないのだからと、私も黙っていた。
この先生にとって、これぐらい蚊に刺された時の衝撃しかないんだわ。誰が何を言っても、動かされる人じゃない。苛々した顔も、怒った顔も、悲しい顔も、嬉しい顔も、今回初めて見たぐらいなんだから。
それに興奮した顔も。
本木先生があんなふうに変化するなんて、考えてもみなかった。大声だって、誰も聞いた事はないんじゃないかしら。
そう考えると、だんだんと心配になってきた。本木先生、情緒不安定なんじゃないかしら。いつもは家でリラックスできるけど、修学旅行中は他の先生たちと一緒の部屋だし、生徒たちの世話も焼かなきゃならない。心休まる時がないのよ。普段から感情を出さないから、なおさら大変だろうし。だから、あんな暴挙に出たんだわ。
少し可哀想になってきた。胸の奥がギュウっと締めつけられているみたいに、痛い。
「先生」
私が呼ぶと、本木先生は勢い良く顔を上げた。変な顔だった。
「・・・何だ?」
「お腹空かない?せっかく買ってきたんだから、食べましょう」
「・・・君はどういう考え方をしているんだ?」
「普通の考え方です。そんなに落ち込むことはないじゃない。よく考えてみてよ?たかが女子高生の、小娘一人に振られたぐらいで。十代の男の子じゃあるまいし、女々しくご飯も食べれませんって言うほど、先生は若いのかしら?」
「・・・悪かったな。若くなくて」
「あれ、気にしてたの?先生はお幾つですか?」
「言ったからといって、若くなるわけじゃない」
「かなり自棄っぱちですねえ。私、別に年齢なんて気にしないけどなあ」
「僕も気にしていない」
「なら何歳なの?」
「・・・三十」
「やだ、私より十三も上だ!やーい、オジサン!」
「だから言いたくなかったんだ!」
面白い顔。拗ねているわ。
「先生はどういう人が好みなの?」
「聞いてどうする?」
「からかいます」
「・・・それじゃあ言えないな」
「どうして私のことが好きなの?」
「それは・・・」
「それは?」
本木先生は髪をクシャクシャとかき回して、天井を見上げた。しばらく、そのままの体勢でいたと思ったら、私を見つめた。
顔が赤い、照れている。本当は、ころころ変わる不思議な顔なのね。
「どうして好きなのか、それには答えられないが、君を気にし始めたきっかけなら答えられると思う」
「ふうん。じゃあ答えて」
本木先生は切腹の覚悟を決めるみたいに、思いつめた息を吐いた。そんなに話し難いことなのかしら。
「僕がこの学校に就職して三年目に、君は入学してきた」
「そうですか。それで?」
「君は入学式の時に、貧血で倒れただろう?」
「そうでしたっけ?覚えてないなあ」
「倒れたんだ。ちょうど僕が傍にいたから、保健室に抱えて行った」
「ふんふん」
「君は途中で目を覚まして、僕を見るなりこう言った。『ここは天国ですか?』」
「何それ?私、そんな変なこと言わないわ」
「言った。あまりにも真剣な顔をして言うから、困って『いや学校だよ』って説明した。君はしばらく僕を見つめて、また言った」
「今度は何?」
「『だからそんなに疲れた顔をしているのね』」
「私、そんな失礼なこと言わないわ」
「言った。僕は確かにその時、学校に疲れていた。煩雑な事務や、先生方との付き合い。全く言うことを聞かない生徒や、僕をからかっては笑う声。全部が鬱陶しいと思っていた。理想と現実はあまりにもかけ離れていて、これなら学校を辞めてもう一度大学院に入ろうとまで思っていた」
「先生、学校を辞めるつもりだったの?」
本木先生は苦笑して髪をかき回した。
意外だ。もっと強い人だって思ってたのに。逃げ出したいって思う時もあるのか。それなのに、どうしてあんなに冷静でいられるのかしら。
「まあ、そうだ。僕はそんなに顔に出てたのかと、慌てた。自分では隠していたつもりだった。だから、すぐに無理やり笑って否定した」
「無理やりかあ。そういうのは良くないわ」
「ああ。だから、君はさらに言った」
「まだ何か言ったの?我ながら呆れるなあ。それで何て?」
「『貴方が笑うと、私が悲しくなるのはなぜ?』」
「最悪!そんな恥ずかしいこと言ったのお!?」
思わず身を乗り出してしまった。寒気が走るわ、自分の言葉に。だから貧血の直後っていやなのよね。
自分の顔が赤くなっていくのがわかった。
本木先生も恥ずかしそうに笑っていた。
「だから僕は、『君が僕を見て、悲しくなるのはおかしいね』と言った」
あら、どこかで聞いた台詞ね。
「それで?」
「そうしたら、君は言った」
「ああ、もう!これ以上は、恥ずかしいことを言っていませんように!」
膝の上に顔を伏せて手を合わせ、神様に祈った。
「『貴方が疲れていれば、私も疲れる』」
「は?」
「『貴方が悲しければ、私は心痛い』」
「へ?」
「『貴方が笑えば、私は心安い』」
「・・・」
さっきの言葉とよく似ている。恐る恐る顔を上げると、本木先生はいつもの澄ました顔に戻っていた。
「と、君に真剣な顔で言われたわけだ。僕はその時、初めて他人に負けたと思った」
「どうして?」
「僕はずっと、自分の本心を悟られないだろうという自信があった。つまりはクールに生きられると思っていたんだ」
「そう・・・」
私と一緒ね。私もそう思って、ここまで生きてきたのに。
「でも、君はたった数分で僕を打ちのめした。僕のスタンスを壊してしまった」
「・・・ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。それは僕の弱さだからね。それで、僕は君をずっと観察して、自分を打ち破った人物がどういう人間なのかを研究しようと思った」
「それは・・・変態だわ!」
「何と非難されようともかまわない。僕はそれだけのために学校に残った、あまり教師には向いていない人間だ。しかしその結果、君を好きになっていた。これはね、理屈じゃないんだ。いつ、どこで、どうしてそうなったかなんて、僕にもわからない」
だとすると、先生は私を一年生の頃からずっと知っていたわけね。私の何を見ていたのだろう?
「高井さんを振ったのは・・・」
「一番の理由は、君が好きだからだ」
「そう言えば良かったのに!『そういう対象には見れません』って言われたら、彼女じゃなくたって相当に傷つくわ」
「そうだね、僕だって傷ついている」
「・・・ごめんなさい。でも」
「それでも、僕が素直に言っていたら、今度は君が傷つく恐れがある」
「そんなことないわ。私は噂になろうが、彼女から意地悪されようが、みんなからシカトされようが平気よ」
「あのなあ、僕の言葉が高井にどれだけ影響を与えたか、知っているだろう?人の言葉というものは、どんなに飾ろうとも人を傷つけずにはいられないんだ。君は、僕が言ったことに対して起こり得る現実に、本当に耐えられるのか?」
「大丈夫よ」
「昨日の事ですら、上手く受け止められてないじゃないか」
「それとこれとは別問題よ」
「違う、結局は同じだ。僕は君を傷つけた。君はそれに耐えられなくて、ヒステリーを起こしてる」
「先生は関係ないわ」
「関係ある。昨日の事は、いくらでも僕のせいにしていい。だから、自分が駄目になったとは思わないでくれ。頼むから、無理に自分を作ろうとするのはやめてくれないか?」
「・・・」
ほらまた、一つも言葉が出てこない。本木先生がじっと見つめるから、私は困り果てた。だって、自分を作る事をやめなさいっていうことは、今までの生き方を捨てろということよ。十七年間もこれで生きてきているの。自分を捨てたら、誰が私を守ってくれるの?
「私は―――」
「言っておくが、今までの君の生き方を否定しているわけじゃない」
先回りされてしまい、また言葉に詰まった。
「じゃあ・・・どうすればいいの?」
「昨日の事を、本当はどう考えているんだ?」
「どうって・・・。別に・・・何も・・・あれは欲望の塊だから・・・」
「欲望の塊なんて、あるわけないだろう!そんな無感覚な事だったのか?それとも、あれは通過点か?君が大人になるための」
「ち、違うわ!あの時は、私・・・雰囲気に飲まれちゃったの」
「・・・何だって?」
本木先生は怖い顔をして、私を睨んだ。だから私は泣きそうになった。
「ちょっと悪戯しようと思っただけだもん。男の人ってどうなるのかなって興味もあったし。それに先生、いつも冷静そうだから、もしもの時は絶対に止めてくれるものだって思ったんだもん」
「馬鹿か?君は!」
きっと今、私はとても情けない顔をしているに違いない。自分がよくわからなくなってきた。口に出るのは、本木先生が傷つく言葉ばかり。
「・・・そしたら先生が興奮しちゃって、歯止めが利かなくなっちゃうし、私だって体がコントロールできなくなってたし。そんなことしてるうちに、先生が中に入ってきちゃうんだもん!私は本当に嫌だったのに!」
「いや・・・それは」
本木先生が頭をかいて目をそらした。
「・・・僕も悪かった」
「・・・ごめんなさい、別にいいの。私の責任だもの。先生が気にすることじゃないわ」
「これは責任云々の問題じゃないだろう?君はもう少し自分を大事にしなさい。あまりにも考えがなさすぎる」
わかってるわ。だからこんなに苦しんでるの。
「・・・はっきり言って、先生は苦手よ。私の困ることばかり言うわ」
「・・・つまり、嫌いだということか?」
「良い人だと思うわ。だって、私を優しく抱き締めてくれたもの」
「当然だろう」
「でも、先生が抱き締めると、私の背骨は折れそうになるわ」
「そんなに強く抱いた記憶はない」
「私を支える時の先生の手は温かいわ」
「そうか」
「私は先生を好きなのかしら?」
「それは・・・」
今度は先生が言葉に詰まった。私だって何も言えなくなった。
私は黙って立ち上がり、ポットのお湯を急須に注ぐと、二人分のお茶を用意した。それから、封を切って塩昆布のおにぎりを食べた。本木先生も黙って、鮭のおにぎりを食べ始めた。
湯呑から白い湯気が、私と本木先生の前に立ち昇っていた。
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