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学を修める旅行の夜に
修学旅行二日目の夜、彼女は話し始めた。
「でさあ、その時に彼氏がね―――。ええ?ああ、ものすごく痛かったよ。何て言うのかなあ、口を両端から強く引っ張られた感じ」
グループの女の子が嬌声を上げる。
「やだあー!本当に?そんなふうなのかあ。いいなあ、私も早く済ませちゃいなあ」
何それ?何かの通過点の話?決算は年度末じゃなかったかしら。
読んでいた本を閉じて、テレビのほうを見る。麗しき少女と、三十代ぐらいのいい男が目に入ってきた。
これがまた、どうして良いタイミングに『ラマン』なんてやっているのかしらね。否応なしに盛り上がるよね、その手の話は。しかも修学旅行中で、いちゃつく男子がいるはずもない女子高なんだから。
人の初体験を聞いて歓声を上げながら、時々こちらのほうを向いて『ラマン』に茶々を入れている女の子たち。それにしたって、夜通しその話をされるのは勘弁だわ。
それとは反対に、お喋りもせず『ラマン』を見ている人は私を含めて四人。まるで研究室に閉じこもって、猿の生態でも見ているかのようね。まあ、猿とはちょっと違うけど。
机に置いてあるお菓子に手が延びる。この手の映画を見るとお腹が空くのよね。気持ちいっぱいなのに。
他の三人もそれぞれお菓子を食べている。同じ感覚の人たちがいて良かった。ふと、同時に目が合って、四人で笑った。そして、また食い入るようにテレビを見た。
彼女たちの話は、だんだんエスカレートしていく。
「私もさ、怖いとか色々思ったけど、やっぱり好きな人と一つになりたいって思うじゃん?彼が慣れてる人だったからさ、そのうちに痛みなんて吹っ飛んじゃって、もう気持ちよかったあっ!でもさ、あそこを舐めるって何か変な感覚。彼がね―――」
そりゃあ良かったわね。私なんか『慣れている人』って聞いただけで、男のあれを蹴飛ばしてるわよ。それだけで、不信感が樹海のように広がるわ。
映画の二人は会うたびに初々しい。『慣れている』なんて言わないところが良いわ。でも、これってカット版なのよね。そんな中途半端な事しないで、全部見せてくれればいいのに。
またお菓子に手を伸ばす。
テレビを見ている一人と手がぶつかって、はっと顔を見合わせた。二人でなぜか照れ笑いをした。
何事もなかったようにテレビに視線を戻すと、喘いでいる少女とオジサマがアップで飛び込んできて、思わず咳き込んだ。お菓子の粉が口から零れて、慌てて拾い上げる。
すると、後ろで猥談をしていた一人が笑いながら声をかけてきた。
「やだあ、佐和さん!興奮してるのお?」
それで一同大爆笑。私も振り返って笑った。
「だって、いきなり見ちゃったんだもん。びっくりするじゃない?」
彼女がお腹を抱えて笑っている。そりゃあ笑うわよね。これで吹いてたら、一生抱いてもらえなくなっちゃうわ。
「ねえ。佐和ってさ、彼氏いる?」
こんな映画を、食い入るように見ている人に対する質問じゃないわね。
「いないわ。今は自分で手一杯の精一杯。他人を構っている暇はないよ」
女の子らしく、一人が疑問形の声を上げた。
「えー?でもさあ、寂しくない?私、ものすごく彼氏欲しいもん!いいよね、休みの日に一緒にお買い物したり、映画見に行ったり。クリスマスには二人っきりで過ごしたりさあ。憧れちゃうよおー」
「あははは。ねえ、皆川さんは特定の誰かじゃなくて、『彼氏』って呼べる人が欲しいの?」
「え?彼氏ってことは好きな人ってことでしょ?」
「好きな人はいるの?」
「いないけど・・・まあでも、彼氏がいればいいなと思っただけ」
不思議じゃない?好きでもないのに『彼氏』は欲しいわけか。
そう思っていると、彼女がふんと鼻を鳴らした。
「だめよ、緑。佐和は頭固いから。真面目だもんね。いっつも、澄ました顔してるし」
私が真面目だったら、成績はもうちょっと上なんだけどなあ。それに顔は生まれつきよ。少し呆れた。
「あのねえ。それじゃあ、高井さんは自分が『不真面目』だって、自分で言ってるのと変わらないでしょう?これはスタンスの問題。あなたは彼に身を捧げ、私は自分に身を捧げているだけ。ディドゥユーアンダースタンド?」
「何だ、聞いてたの?でもさあ―――」
彼女はなおも食い下がる。私に恨みでもあるのかしら。
他の三人はきちんとテレビを見ている。羨ましい限りだわ。ほら、いいところが終わっちゃうじゃない。
「結局、世界には男と女しかいないわけじゃん?恋愛するのは決まり事みたいな感じよね?自分対自分じゃあ、寒いわよ」
ふうん、その考え方はなかなかいいわ。
「世界には両性の動植物もいると思うけどなあ。オッケー、とりあえず人類に限定して話しましょう」
「『人類』だって!エラそう!」
女の子たちが笑い出す。箸が転がっても可笑しい年頃だから、仕方ないよね。それにしても、彼女たちはどうしていつも私の話し方に笑い転げるのかしら。いっそのこと、お笑い芸人にでもなっちゃおうかな。
「あははは。まあいいじゃない。ええっと、そうね。恋愛という枠に捕らわれず、なおかつ全てに共通する、私たちが向き合わなければならないものといったら、それは欲望よ。男と女っていう複雑な数式よりも簡単でしょう?向き合うのは欲望の塊」
「『欲望』だって!エッチィー!」
いちいち反応しないでよ。こっちが恥ずかしくなるわ。
「そうかなあ?どんなに素敵な恋愛も欲望だわ。この世界には欲望しか転がってないの」
「えー?じゃあ愛は?愛!世界を救うんでしょ?」
一斉に大爆笑。私も笑った。
「『愛』なんて言葉は、もう人類の欺瞞よ。それも欲望。愛し愛されなんて、結局は自分の欲望と都合のいいもの同士がくっついただけよ。もしくは自分の醜い自己満足を隠すための嘘偽り」
「何それ?じゃあ、私と彼もそうだっていうの?」
彼女が急に、顔をしかめて怒り出す。難しい年頃よね。
深呼吸をする。これを言ったら、明日からシカトかな。
「そうよ。高井さんは彼の中に自分の欲望を見出し、彼は高井さんの中に見出した」
「ちょっと!喧嘩売ってんのお!?」
バンと机が鳴った。さすがにテレビに釘付けの三人もこちらを向いた。
視線が一気に集まる。良い気分ね、女王様みたいで。
「あのね、欲望は誰もが持っていなくちゃいけないの。生きる意志ですら欲望よ。それに、相手の欲望を見極められるなんて、素敵な事でしょう?あなたはその目を持っていて、私にはその目が無いだけよ。アーユーオッケー?」
「・・・佐和、まだ『した』ことないんでしょう?」
あら、いい所を突いてくるわね。こういう場合って、見栄を張ろうか平気な顔をしようか、迷うわよね。
「いつでも目を光らせているんだけどね」
歯を見せて笑うと、彼女はきょとんとした顔をして、すぐに笑い出した。
「なあんだ!ないんじゃ、仕方ないよね」
「そうねえ、仕方ないわ」
皆が力なく笑った。
ザッツライト、人類の欺瞞じゃなくて、私の欺瞞よ。
ご機嫌麗しき彼女が、また言ってくる。
「だめだよー。早く大人にならなきゃさあ。やっぱり、体験しちゃうと世界が変わるよ?」
「そうねえ。でも、今はこれで精一杯よ」
もう一度、歯を見せて笑った。そして、やっとテレビに目を向けた。
『ラマン』は終わっていた。
テロップが流れ、来週のアクション映画を宣伝し始めている。なんて無機質な声なのかしら。
半ば茫然としていた。後ろでは、まだ続きを話している。ものすごく悔しい!あんな話に付き合うんじゃなかった!
他の三人はといえば、本当に悔しい事に満足そうな顔をしていた。実際、お菓子には全く手を伸ばさない。
「すごかったよねー。よく別れられたよね、惜しくないのかなあ?」
「結局、生活のためじゃん?いくら愛しててもさあ。私だったら、ああいう情けないタイプは嫌いだなあ」
「でも、大して激しくもないよね。なんか、雰囲気がいやらしいだけで。あれぐらいしそうだよね」
「えー?やだなあ、感覚が狂ってるんじゃない?ユキは」
いいわね、私もその話に参加したいわ。途中まで一緒だったのに。はいはい、満腹になって良かったわね。名作も女子高生にかかれば、純然なポルノだわ。
急激にお腹が空いてきた。こんなことなら、初めからあんな映画なんて見るんじゃなかったわ。
大きなため息を一つ吐くと、バッグから薬を取り出して飲んだ。修学旅行中は必ず飲み続けなければならない薬。あっちも面倒だけど、薬も面倒。しまうのも面倒臭くて、机の上に放り投げた。
映画対談をしている一人に何の薬なのかと聞かれたから、素直に答えた。すると、その子が大笑いで「それなら今は誰が来てもオッケーね」と言った。
頬を膨らませて黙っていると、突然にノックの音がした。誰かが返事をした直後に、座敷の引き戸が開いた。
「こら!さっさと、布団を敷け」
彼女が声の主を見つけて、嬉しそうに笑った。
「うるさいよ、先生!わかった、私を襲いに来たんでしょう?」
「本木先生、サイテー!強姦魔!」
本木先生は、からかわれても全く動じない人だ。若い先生なのに大した人だなあと思う。澄ました顔をして、女の子の部屋に堂々と入場してくるところもすごい。
「はいはい、わかった。就寝時間だぞ、さっさと寝なさい。明日の自主研修に響く」
大丈夫よ、私たちそんなに柔じゃないのよ。その気になれば、反対に先生を襲った後でも元気に出かけられるわよ。なんて、ちょっと意地悪なことを考えていたりする。
なんとなく、本木先生は苦手だ。
何を言ってものれんに腕押し。違うな、いい表現が思いつかない。私にしては珍しい。人の悪口なら砂の数ほど出てくるのに。週番の時に顔を合わせるぐらいの縁の薄い先生だから、当然といえば当然か。
ああ、そういえば試供品の香水をつけていた時、怒りもせずに「良い香りだね」と言ったっけ。変な先生よね。
でも、嬉しかった。
小宮先生に見つかって注意されたけど、それよりもずっと本木先生の言葉が心に沈んだ。今でも思い出すと、顔が緩んでしまう。
ぼうっと宙を見ていたら、本木先生はこちらに歩いてきてテレビを消した。あら、なんて余計なことをする人なんでしょう。これから深夜番組で、さっきの映画の埋め合わせをしようとしてたのに。
「先生、それは余計だわ」
つい声に出してしまった。本木先生が振り向いた。
「なんだ、佐和?もう就寝時間だ」
なんだ、名前を覚えていたのか。やだなあ、これだから出来の悪い生徒は。
「眠れるわけないでしょう?これから見たい番組が始まるんだから、邪魔しないで下さい」
「全く正当性がない。集団生活が嫌なら、修学旅行に参加することはない」
「だって、先生。私、さっき『ラマン』を見ていたんです」
「は?ああ・・・」
珍しいことに、本木先生は難しい顔をした。ふうん、先生も見ていたのかな。
「先生、見てました?」
「見てない。そういう映画を見られるほど、先生たちは暇じゃないんだ」
「そういう映画?じゃあ、見た事はあるんですね?」
「そんなプライベートなことを話す必要性がどこに―――」
彼女が高まったテンションのまま、大声を上げた。
「えー!見たことあるの?先生の感想は?」
「やだあー!聞きたーい!」
ソプラノの大合唱。いいタイミングだわ。
「熱望してますよ?」
本木先生はもっと難しい顔をした。騒ぐ彼女たちに首を振って拒否すると、再び私に向き直った。
「それを見てたから、何だっていうんだ?もう放送は終わっているだろう?さっさと寝なさい」
半分呆れて怒ってる。そうよね、私でも呆れて怒るわ。
「それがね、途中で目を離してしまったんです」
「それで?」
「中途半端に見ちゃったんです。だから気持ち悪くて」
「・・・だから?」
「あれ?最後まで理由をお聞きになりたいですか?」
「・・・」
「お聞きになりたいですか?」
もう一度、声を高らかに上げて言った。
彼女とその周りにいる女の子たちは、急に静まり返りきょとんとした顔をしている。
テレビに釘付けだった三人は吹き出しそうだけど。貴方たちはいいわよね、最後まで見れたのだから余裕があって。
本木先生はしばらく無言で天井を仰いでいた。それから髪をかきむしった。形容しがたい顔をして、小さくため息をつく。
「わかった、言わなくていい。君の言い分はわかった。だから寝なさい」
わかった?だから寝なさい?だから眠れないって言ってるでしょう!
「先生たちの部屋って、ああいう映画は見れないんですか?松岡先生に止められてるとか?」
「あのなあ・・・見回りとか明日のための会議とか色々あって、部屋を空ける事が多いんだ。最後まで見たくても、途中で抜け出さなきゃならないんだよ。それもこれも、みんな君たちの―――」
「じゃあ、先生も中途半端に見ちゃったんだ?」
にっこり笑って、言ってやった。本木先生は大きく息を吸った。
「やだあ、ウソツキ!先生も見てたのー?エッチだあ!」
またも歓声が上がる。そのおかげで、本木先生はいつもの態度を取り戻したようだった。もう就寝時間は過ぎている。本木先生、あとで松岡先生に怒られるわよ。
「はいはい!もう君たちには付き合っていられません。今度見回りに来た時に起きていたら、廊下で正座だからな」
「それって古いよー。せめて逆立ちとかはー?」
「余計な茶々を入れるな」
少し怒らせたようだ。本木先生は部屋から出て行く時、ちらりと私のほうを見て眉を釣り上げた。
彼女たちは笑い転げていた。そのあと、本木先生の話題のオンパレードだった。若い男の先生って辛いわね。
私といえば、傍にいる三人から同時に言われてしまった。
「佐和って意地悪ね!」
「そうかなあ?でも、隣でユキたちが笑いを堪えてるんだもん。私、平気な顔を保つのに必死だったんだから」
「悪い、悪い!でもさあ、そんなに『ラマン』が見れなかったことが悔しいわけ?欲求不満なんじゃない?」
「最後まで見た人たちからは言われたくないわ」
「きちんと見なかった人が悪いのよねえ?」
そう言って、三人は顔を見合わせて頷いた。
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