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(3) 初バイトは石ころ
そうして、今に至る。バイトの初日である。アプリを通して指定された時刻に、指定された場所を二人で並んで歩いている。佳弥が掛けているサングラスは自分で百均で買ったものだ。ガラス戸やショーウィンドウなどに映る自分の姿を正視する自信が無かったので、顔と視界の両方をぼかすために身に着けている。次回からはマスクも装着しようと思っている。
中野の説明によると、変身後には黒衣の効果で、他人の注意を惹くことが全く無くなるのだという。実際、こうして繁華街を歩いていても周りの誰も二人を避けようとしないので、うっかりすると酔っ払いと衝突しそうになる。こちら側が注意深くすり抜けねばならない。確かに、この機能があれば夜にこうして若い女子が出歩いていても、犯罪に巻き込まれる恐れが無くて安全だ。夜遅くのバイトのために家を出るときに、全く気付かれないというのも便利である。
この機能を悪用したら、盗みや殺人を犯すことだって簡単じゃないのだろうか。と佳弥は心配したが、仕事の指示が無い時には変身ボタンが表示されない仕組みになっていた。そして、バイト中は行動が監視下に置かれ、頻繁にナビゲータからの指示が入るので、悪用はできない。
しかし、ちょっとした時間でこなせる犯罪なら可能なのでは、と佳弥は気が気でない。佳弥はばれなくても悪事に手を染めたいとは思わないが、このアンポンタレ幸祐ならば、悪気は無くともうっかりコンビニからお菓子をそのまま持って出るくらいのことはしそうだ。
私がしっかりしなくては、と佳弥は心の中で兜の緒を締めた。そして、こんなことだから余計に変身後が老けてしまうんだ、と幸祐をまた憎たらしく思う。
「えっと、次の角を右に曲がるんだな。」
佳弥の心も知らずに、幸祐はのんきにスマホの画面と目の前の路地を見比べている。佳弥もスマホを確認する。幸祐の言うとおりの指示が出ている。
角を曲がると、辺りは薄暗く、明かりの灯っていない古い長屋造りの住宅に混じって、埃の積もった店内が見える傾いだ食堂や、入り口で外国人の女がだるそうにタバコをふかしている古アパートが並んでいる。足元にチューハイの缶を置いてしゃがんだまま、何かに苛々しながら独り言を繰り返す男もいる。お世辞にも治安が良いとは言えない街並みだが、誰も佳弥と幸祐には目もくれない。堂々と脇を通り抜けて、二人は一軒の空き家の前で立ち止まった。
空き家、とすぐに判ったのは他でもない。道の端スレスレのところにカラーコーンがぽつねんと一個だけ置かれ、その傍らの壁に「頭上注意 剥落のおそれあり 中央土木事務所」と書かれたラミネート紙がトラテープで貼られているのである。見上げてみれば、道路に面した二階部分のモルタルにひびが入り、一部剥がれた跡が垣間見える。窓と入口はベニヤ板で簡易的にふさがれている。
「あまり近寄りたくない家だな。でも、ここで何だっけ、何するんだったかな。」
スマホを確認する幸祐を無視して、佳弥はカラーコーンから少し離れた植え込みに近付いた。上方を確認すると、植え込みに接している壁面には損傷はなさそうだ。モルタルが落っこちてくることはないだろう。安全を確認した佳弥は、植え込みの中を覗いた。枯れて葉っぱのない低木や名も知れぬ雑草の巣窟になっている。
「佳弥ちゃん、ひょうたんみたいな形の石なんて、あるか?」
アプリの指示によると、茂みの中のひょうたん型の小石を拾って、カラーコーンの脇に置けと言うことである。行為の意味が全く分からない。が、それで給料が出るのだから、四の五の言わずに従うしかあるまい。
茂みの中をスマホで照らしながら探すと、割合にあっけなく小石は見つかった。
「これでしょう。置いてきてください。」
佳弥は小石を幸祐に渡した。カラーコーンの脇は、モルタル落下危険地帯だ。佳弥は近付きたくない。
幸祐は小石を受け取ると、警戒心ゼロという体でカラーコーンに近付き、小石を置いた。そして、その場でじっと小石を眺めている。
「驚くくらい、何も起こらないな。」
「そこ、危ないですよ。早く離れた方が良いんじゃないですか。個人的には、市川さんの頭に壁材が落下してくればいいと思いますけど。」
「そこまで正直に言わなくていいよ。佳弥ちゃんは一言多いんだよな。」
「いつまでも他人をちゃん付けで呼ぶからです。気色悪い。」
起伏のない声で言って、佳弥はスマホの画面を確認した。業務終了、とある。次の仕事は、あと三十分間、この辺りをうろうろと歩き回るだけらしい。ここから離れすぎたら注意喚起するが、そうでないなら道順に指定は無いから好き勝手に歩けとのことである。やっぱり、意味が分からない。
佳弥は茂みからコーヒーの空き缶を拾い上げた。これはツボ押しの仕事とは関係無い。
「それ、どうするの?」
「ゴミ箱に捨てる以外に何があるんですか。」
行きがけに自動販売機があったのを佳弥は覚えている。自動販売機には空き缶のゴミ箱も設置されている。来た道を戻って、佳弥は空き缶をゴミ箱に捨てた。
「へえ、ポイ捨ての缶を片付けるなんて、偉いもんだな。」
「馬鹿にしてるんですか。ゴミをゴミ箱に捨てるなんて当たり前ですよ。さては、市川さんはそんな当然のこともしていないんですね。さすがです、見下げ果てました。」
「俺だって、ゴミくらいちゃんとしかるべき場所に捨ててるよ。ホントにもう、何で佳弥ちゃんはいちいち突っかかってくるかなあ。」
歩きながらぼやいて、幸祐は思案気に腕を組んだ。
「佳弥ちゃんが嫌なら、佳弥たん。佳弥坊。佳弥べえ。お佳弥さん。もういっそ、ゾフィーとかメイベルとか。変身してるし、コードネームみたいにさ。」
「変に工夫しなくていいので、名字で呼んでください。返事しませんよ。」
冷たく返しつつも、コードネームは良い案かもしれない、と佳弥は考える。夜更けにこんな変なことをして歩くなら、本名を呼び合わない方が安全ではないだろうか。違法行為をしているわけではないが、堅気の仕事かと言われたら何となく違う。
しかし、佳弥は幸祐のことを全く信用していない。本名とは別のコードネームを考えたところで、必要な時に確実に使用されるという保証がない。逆に佳弥がコードネームで呼びかけても、自分のことと思わずに反応しないで終わるだろう。そう考えると、現実味に欠ける。やはり、名字が一番だ。
「佳弥ちゃんの名字って何だったっけ。」
暫く黙って歩いていた幸祐が出し抜けに尋ねたので、さしもの佳弥もがっくりと肩を落とした。この男は、本当にポンコツだ。
「竹本です。」
「竹ちゃん。」
「ちゃんが嫌だって言っているの、理解していますか。市川さんの頭は腐っていますか。」
「腐ってないって。あのさあ、やっぱり、十も年下の子はちゃんって呼びたくなるよ。佳弥ちゃんだって、年の離れた親戚の子はちゃん付けで呼ぶだろ?」
佳弥は親戚の子という存在を思い出そうとした。何人かいるいとこは皆年上だから、名前に兄さん、姉さんを付けて呼んでいた気がする。それ以外に、未成年の親戚と会ったことはない。兄はまだ学生で、結婚していないから、甥も姪もいない。
甥か姪ができたら、ちゃんなどという子どもを愛玩用に見るような呼称はやめて、一つの個としての敬意をもってさんを付けて呼ぼう。佳弥は固く決意した。
「市川さんの精神年齢は私の実年齢より下です。私はいわば年上ですよ。敬ってください。」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。まあ、でも、別に敬ってほしいわけじゃないんだけどね。市川さん、なんて堅苦しいしさ、タメ口で幸祐って呼び捨てにしてよ。」
「目上の方に対して、そんなことはできません。」
「そんなこと言うから、老けるんだろ。俺、佳弥ちゃんみたいに堅い高校生は初めてだよ。佳弥ちゃん、本当に十六歳なのか?」
佳弥は黙って幸祐の膝裏を蹴飛ばした。カクっと膝を折られて、幸祐がたたらを踏む。親しき仲どころか、目上であっても、礼儀あり。人が一番気にしているところを何度もほじくるような不届きな真似をするならば、それ相応の報いを与えねばならない。
幸祐を無視してずんずん歩くうちに、指定の三十分が経過した。スマホから連絡が入る。今日のお務めはこれで完了、お気を付けてご帰宅ください、とのことだ。
誰も住んでいない家の石ころをほんの少し動かして、三十分散歩する。大体一時間経過しているので、これで九百円の労働ということになる。高いのか安いのか、判断に苦しむところではあるが、何の意義があるのかはさっぱり見当もつかない。体は楽だが、心はもやもやする。
だが、まあ、お金がもらえるならそれでいい。給料日は二十五日らしいので、そこで振り込みがなされていれば全く問題は無い。仕事の内容なんて、考える必要は無い。
佳弥は仕事が完了するや否や、暗がりで変身解除ボタンを押した。腰と膝の鈍い痛みが溶けて無くなる。体が軽くなった。若い身体に戻った。安堵してサングラスを外し、ポーチに入れる。
傍らでは、幸祐も変身を解いてスマホの画面を見つめている。
「仕事って、これだけなんだなあ。本当に、世の中に何か良いことが起きるんだろうか。佳弥ちゃんは気にならない?」
「別に何も。中野さんに訊いてみたらいかがですか。じゃあ、お疲れさまでした。」
軽くお辞儀をして、佳弥はさっさと駅に向かった。小一時間散歩しただけだが、疲れた。きっと、気の合わない奴の隣にずっといたせいだろう。帰って、風呂に入って、寝てしまおう。
佳弥が地下鉄に揺られているとき、スマホが軽く震えた。画面を見ると、バイト先から連絡が入っている。
「今回のツボ押しの効果で、世の中のポイ捨ての空き缶が一つ減りました。ありがとうございました…何だこれは。そんなもの、ツボを押さなくても直に片付けたよ。」
佳弥は呆れて、ため息をついた。こんな結果報告なら、知らずにいた方がマシかもしれない。本当に、これで給料をもらえるんだろうか。そっちが心配になってきた佳弥であった。
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