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月のしるべに導かれ
どうして、と唇が動く。
無意識だった。
釘付けになった視線を、引き剥がしたいのに動けなかった。
見たくないのに目は彼を見る。私には見せてくれない笑顔を見せる。
聞きたくないのに耳は、ひとりでに彼らの声を拾ってしまう。
高性能な集音器のように、鮮明に、雑踏の中その台詞が浮かび上がる。
秋の初め、九月の終わり。
空気が乾き始める季節。
月の明りとネオンが混じった景色には、私が『生涯を誓った人』がいた。
「もぉ~、篤志ったらいいのぉ? 来月式なんでしょぉ」
「おいおい、こんな所まで来て今更なんだよ。独身最後の夜って言うだろ。あんな根暗な女、社長令嬢でもなきゃやってらんねーよ。今夜くらい楽しませてくれてもいいじゃんか」
「っきゃ! もう、こんなとこで……悪いヤツう」
明るいネオンライトの下で真っ赤な唇が弧を描く。夜といえど人通りの多い繁華街で、服ごしに男性に胸を触られ声を上げる女性の姿は、正直吐き気がするほど気持ちが悪かった。
……ああ、そう。
やっぱり、そうだとは思ってたけど。
自分の中に、驚きとはまた別の視点で自分を眺め見る女がいた。
頭に諦めの混じった声が響く。
どこともわからない場所に繋がる電話番号が書かれた電信柱の後ろで、私は来月夫となる筈だった男が笑いながらホテルへ入っていくのを目にしていた。
確か、あの女性は……そうだわ。
受付の織原亜唯子さん、だったかしら。
脳内の冷静な部分が相手女性のデータを掘り起こす。見知った顔は自社の受付嬢だった。彼女の出すやたら甘ったるい声を、猫なで声というのは猫に失礼だと思う。
「良かった。アプリ入れておいて」
ホテルに入っていった二人の後ろ姿を見届けて、私は綺麗とは言えない電信柱の後ろで息を吐いた。
咄嗟にこんな判断ができた辺り、私自身あの人の事はさほど好きでは無かったのかも知れない。そんな事に今更気付く。
ただ、結婚する以上は誠実であろうと考えていた。彼には根暗に見えるだろうが、これでも今年三十一になるのだ。人並みの恋愛経験も数は少ないがある。
ただそのどれもが……私という人間と付き合っていたのでは無く、『葛籠カンパニー社長令嬢』と付き合っているのだとわかってからは、誰かを好きにはなれなかった。きっとそうやって逃げていたから罰が当たったのだろう。
でも、それとこれとは話は別だ。
「さて、画像保存して、お爺さまとお父様、あと彼の上司と後輩と……あ、そうそう、彼女の上司にも送信しておこうっと」
喜々としながらスマホを操作する。連絡先はすべて入っているから一度に全てが片付いて一石何鳥にもなる良い時代だ。送り手がスマホであってもきっと彼らは会社で、それもパソコンで見ることになるだろうからきっと大アップで見えることだろう。
誰が誰といて、誰の胸を誰が触って、そして連れだってどこのホテルに入っていったのかを。
私が恥をかくのは別にいいの。
必要なのは我が『葛籠カンパニーの社長令嬢』が侮辱された、コケにされた、という事実だけ。
「……明日はきっと素敵なモーニングコールがかかるでしょうね」
復讐にも報復にも興味は無かったけれど、この程度の意趣返しならば三十過ぎた根暗女にも許されるだろうか。
ビジネスの絡んだ結婚だった。けれど、彼は私に約束したのだ。
私を愛し、不貞はしないと。婚約をしたあの日から。
契約不履行にはペナルティーがある。それは仕事でもプライベートでも同じだろう。
着ているスーツと同じグレーのスマホを飾り気のないバッグにしまう。
赤い唇の彼女はピンクチェックのタイトスカートに、フリルリボンのついたシルクブラウスを着ていた。
「そりゃ、あっちを選ぶわよねえ……」
乾いた秋の風に、乾いた台詞を流し込む。
繁華街をふらふら歩いて、気がついたらどこかの住宅街にまで来ていた。女一人で物騒な、なんて私の年齢にはもう似合わない。
ひっつめた髪のピンを武装解除するみたいに引き抜きながら、無造作に落ちていく長い髪を放り出す。
「あ、良い香り……」
澄んだ夜の空気に花の香りが混じる。強い香気は、いつか父が聞かせてくれた夜に咲くという月の名を持つ花の芳香だろうか。
もしも私が、ひっそりとでもその花のように美しく咲き香りを舞わせていたなら、彼も他に気をやったりなどはしなかったのだろうか。
「駄目ね。感傷に浸っても何が変わるわけでなし」
明日はきっと会社で散々陰口を叩かれるのだろう。婚約者に捨てられた哀れな女として。話の槍玉にあげられるのだ。
「嫌だなぁ……」
月明かりに照らされた住宅街のコンクリートロードを歩きながら呟く。
見上げた月は、中秋の名月というだけあって大きく美しい。
まるであの中に別世界があるかのように、金色の光が地上に降り注いでいる。
冷たいコンクリートにすら月の道が走っている。
「つきしるべ、か」
道しるべという言葉があるように、月のしるべがあればいいのに、とふと願う。誰でもいい。月の住人でも、たとえ異形でも。
今この世界から私を連れ出してくれるなら、この月しるべの差すがまま、私は歩いていけるのに――――
そんな風に。
知らず濡れていた頬の冷たさに現世を捨てたくなった瞬間、空気に混じった花の香りが濃くなった。
「―――なら、俺と行こう。月を冠する花の王国へ」
「え……?」
目の前に、白い花の花弁が舞い散る。純白の衣が、天使が羽根を広げたように翻っていた。
月明かりの下で、目の前に突如現れたその人の存在だけが私の意識を戻す。
「誰……」
白い衣に包まれた、男らしい節のある手が私に伸びる。指先で髪を絡め取り、そして引き寄せ口付けた。
「俺の名はカウムディー。君の世界では「月明かり」の名を持つ者だ」
「っきゃ!?」
急にぐんっと腰を引かれて、驚いた次の瞬間には切れ長な翡翠の瞳に落ちていた。
褐色の肌に彫りの深い顔立ち。高い鼻梁。月光の髪。そのどれもが彼を異邦人だと表わしている。何より、異国の衣装を着た彼の身体は上半身しか『この世界』に来ておらず、中空にふわりと浮いていた。
胴の切れ目は別次元に通じているのか月の金色に光っている。
「さあ行こう。俺は世界も時も越えて君に惚れた。一目惚れだ。君を泣かせる世界に君を置いてはいけない。だから、行こう、俺を信じて」
見開いた目から涙が落ちる。
熱砂の国の王子を思わせるその人が、優しく微笑み涙を拭う。
きっと誰に言っても。
頭がおかしいだとか、馬鹿だとか、今の私は言われるだろう。
婚約者の裏切りで判断が付かなくなっているとかもたぶん言われるだろう。
だけどそれでもいいじゃない。
月明かりの下起きた奇跡。
夢か現かわからずとも、たとえ後悔しようとも。
月のしるべに導かれ、今暫し私は『ここ』からお暇します。
さあ行こう。未知の世界へと。
アニメ? 小説? おとぎ話? いいえ。
これは本当の話。
私と同じ疲れた『貴女』。
ねえ、貴女にも同じことが今日起るかもしれないわ。
月のしるべを探してみて。
そして月明かりの下、手を差し伸べられたら。
引き寄せられたら。
貴女なら一体どうするかしら――――?
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