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拝啓あなた様へ
拝啓。
そう書いたところで手が止まる。
わたしはあなたの名前を知らなかったから。
数少ない友人とショッピングに行った時、あなたのように一目惚れして買ったペンが乾かないようにキャップをかちり、と装着する。
黒いインクだけど、他の黒いインクとは違ってあたたかみのある黒色のインクや可愛らしいデザイン。
とっても書きやすいから気に入っている。
……と、今はお気に入りのペンではなくて目の前に広げられた便箋に集中しなくてはならない。
片隅にもこもこしたひつじのイラストが書かれた、ピンクがかったクリーム色のB5の便箋。
これも駅前の文房具屋さんで一目惚れして、即買いしたものだけど気に入りすぎて今まで使わなかった。
でも、あなたのために引き出しの奥から取り出して、テーブルの上に封をするためのシールと一緒に置いたのだけれど。
「うぅん」
あなたの名前を知らなかった。
生徒数が多いこの学校では同じ学年の人でも知らない人はけっこういるから、別におかしいことじゃない。
でも、それでは、書けない。
手紙を書くために宿題を早く終わらせたのに。
苦手な数学だけど頑張ったのに。
まさか最初の拝啓、で行き詰まると思わなかった。
と、ノックの音が聞こえる。
「おねーちゃーん」
返事をしていないのにドアが開かれた。
弟、現在小学三年生。
好奇心が強く、さらに勘がいい子供だからこの手紙がラブレターであることがバレかねない。
「どうしたの?」
椅子から急いで立ち上がって、弟が部屋の中に入ってくることを無事阻止することができてほっとする。
渡す前に他の人にバレたくはないから、ね。
弟は眠そうな目をこすっていた。
「おねーちゃん、色鉛筆貸してー」
「いいけど、持ってなかったっけ?」
「学校に置き忘れたー」
弟は絵が好きで、絵画教室にも通っている。
だから、この前の誕生日に六十色くらい入っている色鉛筆を買ってもらっていたのに忘れたらしい。
眠そうだけど、絵も描かせてあげたい。
わたしは引き出しで色鉛筆を探す。
弟に渡すと、弟は無事退散。
手紙とわたしの乙女なハートは無事に守りきった。
そして私はまた椅子に座って便箋とにらめっこ。
「……あなた、じゃおかしいよね。うん、なんか夫婦で呼ぶ呼び方だよね……夫婦で」
自分で言ったことに自分で恥ずかしくなる。
あうあうあー。
声にならない声をあげることで、鏡に映った自分の耳の赤さがなくなるわけもなかった。
頭を壁に打ち付けたいけど、たんこぶができた状態で告白するなんて絶対に嫌だ。
だから、頬の熱が冷めるのを待ちつつあなたのことを何て書こうか悩んで悩んで悩みぬく。
「どうしよう」
決められない。
キミ、なんてわたしはあなたのことを呼ばないし。
貴公、だと堅苦しいよね。
……名前なんて恥ずかしくて誰にも聞けない。
拝啓、と書かれたところで手は止まったまま。
じゃあどうすればいいのか。
悩んで悩んで、いいことを思いついた。
「あっ!」
先に本文から書けばいいんだ。
でも、本文。
何て書けばいいんだろう。
重いのも、軽いのも、ストーカーっぽいのも、怖いやつだと思われるのも、全部だめ。
アーティストの恋の歌をいっぱい聴いているからって、告白する文章は簡単に書けないのだと思い知る。
ペンのキャップを閉めたまま、手紙に「好きです」と書いてみるけれどインクは出ていなくて文字として見えるわけではないのに恥ずかしい。
「うー、あー、あぁうー」
一人うなってみるけれど、頭の中に浮かんでくるのはあなたがリレーの練習で一位になって笑っている顔だけ。
ああ、あなた。
どうしてそんなにかっこいいの。
ジュリエットみたいに口の中でつぶやいてみるけれど、それをそのまま手紙に書くわけにはいかない。
明日の体育祭までに。
カレンダーを見て、明日の日付のところがピンクというよりサクラ色のペンで囲んだのを思い出す。
「頑張れ、わたし」
自分を応援する。
あの笑顔を、近くで見てみたい。
あの笑顔を、わたしに向けてほしい。
ペンのキャップをとって、そのキャップを左手に握る。
右手のペンを、ゆっくり便箋に下ろす。
このドキドキがあなたのことを考えているからなのか、字を間違えないか緊張しているのか、それともそのどちらもなのか、わたしにはわからなかった。
<拝啓あなた様へ>
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