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睡魔を吐き出した息を夜に溶かしながら、俺は未明橋へとやってきた。この街に引っ越してもう三年になるが、この橋を訪れたことは一度もなかった。
至って普通の橋だった。
飾り気があるわけでもないし、特別長いわけでもない。ただ、川を渡るために存在しているだけのそれは、月光を浴びて静かに佇んでいた。
……本当に此処なんだよな?
眉間に皺を寄せながら、橋の上を歩いていく。コツコツと自分の足音だけが響くのを聞きながら、中央に立った。
混凝土のような手すりに振れ、俺は疑心暗鬼に水面を覗き込んだ。眼下の川には、朧気な月が揺蕩っている。
何も起きないじゃないか。
そう思った時だった。
心にそっと寄り添うような、静かな旋律が耳を掠めた。そのメロディには聞き覚えがある。
ドビュッシーの月の光だ。クラシックに疎い俺でもこの曲は知っている。
他でもない、『彼女』が弾いていた曲なのだから。
気が付けば、辺りは濃霧に包まれていた。白煙のようなそれが視界を覆いつくした後、嘘のように瞬時に晴れていく。
俺は目の前の光景を見て目を見開いた。
そこは、湖の上だった。
写真でしか見たことのないような鏡面湖。かの有名なウユニ塩湖によく似ている。
鏡に映るのは、大きなグランドピアノ。スポットライトを浴びたそれと、変わらず浮かぶ青い満月。
そして、ピアノを演奏する一人の少女だった。
「久しぶりね、ミチルくん」
煌びやかで繊細な旋律が止むと、彼女――サヤは薄い唇で弧を描いた。
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