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信じられなかった。
不意に逢いたくなった彼女が目の前に居ても、当時と変わらない声で俺を呼んでも、実感が湧かない。
噂話が本当だった?
そんな単純な言葉で済む話じゃないだろう。死者が目の前に居て、さも当然と言わんばかりに声をかけてくる。
「どうして私に逢いに来たの?」
口の中がカラカラに乾いて返事ができない。呆然とする俺に歩み寄り、彼女はそっと俺の手に触れる。
その手は、冬の水みたいに冷たかった。
「……なん、となく」
「そう。ミチルくん特有の気まぐれってヤツかしら?」
返事の代わりに俺は軽く首肯した。
ドクドクと心臓が五月蠅い。非現実的な体験と、俺が殺した彼女がにこりと笑って迫ってくる感覚が素直に怖い。背筋には、凍るような汗が伝っていく。浅くなる呼吸のせいで、思考回路が鈍った。
「そんなに緊張しないでよ。私は何もしないわ。怯えたような目をされると傷つくのよ?幽霊だって、普通に人とお話したいのに」
余程不安げな顔をしていたのか、サヤが子供みたいに頬を膨らませながら言う。「ミチルくんでも幽霊はさすがに怖いのね」なんて、ゆっくりと顔に笑みを広げながら彼女は目を細めた。
そして、長い髪を翻して俺に背を向ける。
波紋を鏡面に広げながらピアノの方に戻る彼女は、まるでスキップでもするかのような足取りだった。
「こっちへ来て。そんなに遠くに居ないでさ」
「……おう」
俺は彼女に手招かれるままに、ピアノの方へと歩み寄っていく。心なしか、降り注ぐ月明かりが明度を増したような気がした。
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