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「ミチルくんも、あの噂話を信じてここにやってきたの?」
「そんなところ。……別に信じてはねぇけど」
「あら、興味津々って顔に書いてあるわよ?クールで一匹狼って感じなのに可愛いところあるのね」
「……馬鹿にしてんのか」
「褒めてるのよ。ただクールなだけじゃつまらないじゃない。そういうギャップが貴方のいいところよね」
サヤは苦笑しながら、水面に浮かぶ楽譜を拾い集めた。何故かそれは微塵も濡れていない。真っ白な紙には、五線譜の上で踊る音符が幾つも書かれていた。
「それ、さっきの楽譜か?」
「えぇ、そうよ。ドビュッシーの月の光。有名すぎる曲だけど、私の一番のお気に入りなの」
「俺でも知ってるもんな。たぶん、クラシックの中で一番聞いた」
「それは私が弾いていたからかしら?」
「……そうじゃねぇよ」
「素直じゃないのね」
ぶっきらぼうに答えると、彼女は口元に手を当てて上品に微笑んだ。
「ねぇ、ミチルくん。せっかく逢えたんだし思い出話でもしない?」
楽譜台に拾い集めたものを置きながら、サヤは無邪気さを含んだ目で言った。
「思い出話って言ったって何話すんだよ」
「そうね……何からがいいかしら」
サヤは眉間に皺を寄せて小さく唸った。
俺とサヤはクラスも違えば、部活動や委員会も異なるものに所属していた。俺と彼女の接点といえば、音楽室での小さな演奏会の奏者と聞き手というだけだ。
心地よいピアノの音色に惹かれて、旧校舎の音楽室に歩いて行ったのをまだ最近のことのように覚えている。
「学生らしく恋バナとかどうかしら」
「つまんねーだろ」
「あら、つれないのね。ミチルくん、案外ムッツリなのかしら?」
「はぁ⁉」
「冗談よ。そんなに赤くならないで頂戴」
「あ、赤くなってねぇ!」
「説得力がないわね」
頬に集まった熱を誤魔化すように怒鳴っても、彼女はケラケラと面白そうに笑うだけだった。
「……それに、今はもう学生じゃねぇだろ」
低い声で告げてしまったそれは、夜空に落ちて月明かりを踏み荒らしていった。ハッとしてサヤの方を見れば、哀感を帯びた目でこちらを見つめていた。
「……それもそうね」
サヤはどこか諦めたような顔で呟いた。そして、水面に映る満月に視線を落として口を開く。
「ねぇ、あの日のこと覚えてる?」
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