さあ行きますわよ! 佐竹!!

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 「さあ行きますわよ、佐竹」  その光景を見たとたん、俺は世界から取り残された。  「お嬢様。何をなさっておいでなのですか?」  やっとそれだけ言える。  ここは俺の仕える公爵家のガレージ。ベンツ、フェラーリ、リムジンと高級車がずらりと並んでいる。  俺は先程お嬢様がドライブをご所望だと言われて、車を取りに来たのだが…。  お嬢様専用車、甲虫色のビートル。その運転席には先にお嬢様ご本人が…。  ご本人がって、なんで、どうしてだ!?  何しろお嬢様は車というものは、自転車いや三輪車でさえ乗ったことのないお人、ハンドルがどうしてついているか、その意味さえ知らない。いいや、ハンドルがついている、ということさえ知らないお人なのだ。  その上、車の運転は使用人の仕事と信じて疑わないような人でもあった。  いや、あったのだ。  その方が運転席!?  「何をしているかと言われるの?  ドライブに行くに決まっていますでしょう。ほら、佐竹。早く助手席にお座りなさいな」 そう言われてさらに混乱する。  「あの、お嬢様。運転免許がないと車は運転出来ませんが…」  俺がそういうと、お嬢様は勝ち誇った顔をして、バックから四角いカードを取り出した。  …うんてんめんきょしょう…?  「ど、どうして!?」  「私、あなたが労災で入院されている間に、教習所に通いましたの。運転免許証の試験も満点で合格しましたのよ」  誰も止めなかったのか? この運動神経0のお人を!!  「ほら佐竹。何をなさっているの?早く早く」  「だめですお嬢様!公道には危険がございます。運転は私めが!」  この人の運転など、絶対に味わいたくない!!  俺は何とかしてお嬢様を運転席から引き剥がそうと。  「もう。心配性ですわね佐竹は。私、とても丁寧な運転だと、教習所の指導教官方にも誉められましたのよ」  「教習所と公道とは全く異なります。もし何かあれば一大事です!お願いですからお嬢様。席を変わってください!!」  お嬢様はのんびりと微笑んでいる。  「ですからあなたに助手席に座ってもらうのではないですか。ほら佐竹、乗っていただけないなら私一人で行きますわよ」  お嬢様は冗談は言わない。一言たりとも、言ったことがない…つまり、いつでも本気…。  「まだお父様でさえお乗せしたことはありませんの。私の最初のドライブ、一緒にいってくださるでしょう?」  「乗らせていただきます!」  そう言うしかなかった。  恐怖におののきなから俺は助手席のドアを開ける。  俺の恐怖にはひと欠片も気づかずお嬢様は楽しげに、とてもとても楽しげに、鼻唄混じりでエンジンをかけた。  「ところでお嬢様、そろそろ目的地をお教えいただけないでしょうか?」  お嬢様はカーナビを使ってはいなかった。何処まで連れていかれるのかわからないと、恐怖は更に増す…。  でもお嬢様は軽やかに右折を決めて、更に交通量の多い道に入っていった。  まあ確かに、悪い運転とは言えないけど…。  俺はもう一度後ろを振り返った。長蛇の渋滞列、クラクションが鳴り響き、バッシングで目がチカチカする。  そう、ここは世紀末の日本、車が凶器になった時代。公道は走り屋と、運ちゃんと、スピード凶の天下だ。  勿論、法廷速度何て誰も守っていない。そこをお嬢様はきっちり60キロで走っている。  さっきと比べても、後ろの状況は更に悪くなっているようだった。  と…。  「あの、お嬢様?どうして停まられるのですか?」  断っておくがここは車道のど真ん中。障害物などなにもない。  だか、お嬢様は真っ青な顔をして前を見つめている。そして、しばらくしてふっと息をはいた。そして私を見上げる。  「危ないところでしたわ、私最初のドライブで危うく轢き逃げ犯になるところでした」  「はっ?」  道路上には人影など見当たらない。お嬢様は優雅に右手をハンドルから放し、前方を指差した。  「ほらあそこ見てごらんなさい、カタツムリさんが横断中ですわ」  その指の先には確かに軟体な生物がいた。いやこんなところにあんなものがいるわけはない。あれはきっと悪魔が化けた物だろう。  いささか非科学的な結論に達して、俺は言った。  「行っちゃってください」  「まあ!何を言われるの佐竹。駄目ですわ、きちんとカタツムリさんが横断するのをお待ちしなければ」  「大丈夫です。お嬢様、このまま進まれても、カタツムリさんを引かれることはありません」  「私たちは大丈夫でも、後ろのかたたちは気づかずカタツムリさんを引いておしまいになるかもしれません」  確かにお嬢様は昔から虫愛でられる姫君だった。  しかし、カタツムリの未来を想像できるならどうして、背後から鳴り響くクラクションの理由を想像できないんだ!!  停車したときは、途切れ途切れだったクラクションはいまや途切れない大合唱となっている。  仕方ない。  俺はドアノブに手をかけた。  「分かりましたお嬢様。私があのカタツムリさんを安全なところまで運んできます」  「あ、危ないですわ佐竹。ちゃんと前後左右を確認いたさなければ」  「何やってるんだ!?」  「早く走れ!!」  「ひっ殺されたいかてめー!!」  車外に出たとたん罵声と空き缶が飛んで来る。まだ殴りに来るやつがいないだけましだな。公爵家のお仕着せこの完全武装の運転手スーツのおかげ。  だが車に乗っているやつらの短気には油断できない。  三ヶ月前の恐怖を思い出す。あのタクシーの運転手は俺が左折の邪魔をしたといちゃもんをつけてきて、スーツを着ていても、俺は手術台に上がるはめになったのだ。  内心の震えを圧し殺しつつ俺はカタツムリを安全そうな街路樹のところまで運ぶ。  「ご苦労様ですわ佐竹」  「いえお嬢様。早く出発してください」  お嬢様は、俺を誉めるようにとてもとても美しく微笑まれ、エンジンを再スタートさせたのだった。  その後のお嬢様の運転も完璧なものだった…つまり、渋滞の列はどんどん延びていっている。  もはや俺は後ろを振り替える勇気さえでなかった。  クラクションも、もはや力尽きたように飛び飛びにしか聞こえてこない。  そこで俺は妙なことに気づいた。  バタバタ…?  窓を開け身を乗り出すと、青空にヘリコプターが何機も舞っていた。  テレビ局のヘリコプター?  あわてて、カーナビを操作しテレビをつける。  <ご覧くださいこの渋滞の列。近年まれに見る…いいえ、誰も見たことのないほどの長さです!>  俺はあわててチャンネルを変えた。  <こちら東京〇〇区の上空です。午後二時に発生した渋滞は、今も着々と延びており…>  <渋滞の原因は分かっておりませんが、開始点が移動しているとの情報もあり…>  <今だかつて誰も体験したことのない渋滞です!!>  こ、怖い。お嬢様の運転がニュースになっている…。  「まあ、渋滞ですって佐竹。私たち早く出てきて正解でしたわね」  いえお嬢様。渋滞を引き起こしているのは貴女です。そう突っ込みたい。たが使用人としてはそれはできない。首をかけてしかできない。首にはされたくない。  <ご覧ください、あの車が最前列です!!>  俺たちの乗ったビートルがカーナビの画面の中、ドアップで写しだされる。  <あの車が原因…? いえこれは…>  お嬢様は黄色信号で華麗にブレーキをかけたところだった。嫌なGの発生しない、全ての運転の見本となるようなブレーキング。  <いやまさか…>  信号が青に変わる、お嬢様が軽快に車を加速させる。  後ろの長い車列さえ気にしなければ、これ以上ないってほどのスタートだった。   <テレビの前の皆様、ご覧になっていらっしゃるでしょうか?>  きっちり3m手前でウインカーを出し、お嬢様は全くぶれない運転で左折する。  <なんと言う美しいターン! まるで銀河を滑る妖精のようです!!>  歩行者のいる横断歩道ではぴたりと停まって横断を待つ。  <そしてなんと言う心遣い!>  お嬢様は教科書通りの運転を続ける。  <皆さん! これ程見事な運転を見たことがあるでしょうか!? まさに神業!! 凄い、我々は凄いモノを目撃しています!!>  「まあ佐竹。世の中には素晴らしい人がいるようですね。私も見習わなくては」  俺は最早何を言っていいかもわからなかった。わかってはいたが、この人の鈍感さは何処までなんだ。  そこで俺は気づいた。脱力しまくった俺の返事に、お嬢様はなぜか少し機嫌を悪くされたようだった。  ぴっ。  カーナビのテレビ画面が消える。  「お嬢様?」  「テレビがついていると気が散りますわ。きちんと安全運転に勤めなければ、ね?」  でも、お嬢様の安全運転のおかげで、街を出る三十分で俺の寿命は三十年縮んだ。  高速に乗り、300キロ超えの車の間を80キロで走られて、高速を降りるとき、もはや俺は幽霊だった。  ずっとついてきたテレビ局のヘリコプターを、八つ当たりで呪いたい気分が半分。  「着きましたわ。佐竹」  後の半分は生きていることを神に感謝していた。  もはや力の入らない両足をなんとか動かして、俺は助手席から立ち上がる。  「ほら、見てください佐竹。夕陽があんなに綺麗」  岬に建つ灯台の下。お嬢様の指差した海に沈む夕日は泣きたいほど美しかった。と言うか、本当に泣いた。  お嬢様が俺の隣に立ち、満足そうに微笑んでいる。そうして、俺たちのは同じ夕日を眺めた。  何分ぐらいそうしていただろうか? 夕日は最後の輝きを残して消え、暗闇が辺りを包んだ。  「帰りましょう、佐竹」  「は、お嬢様」  そう言って俺は運転席のドアノブに手を伸ばし…。  え?  俺の手が届く前にお嬢様は運転席のドアを開けていた。  「お、お嬢様!?」  「あなたは助手席ですわ。佐竹」  そう言われて俺は真っ青になった。  でも。  「私夜の運転は初めてですの。わくわくしますわね」  お嬢様の笑顔は、とてもとても美しかった。
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