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5
──数年振りに人と視線があった。
頭のてっぺんから足の方へ、血液がざぁっと降りていく音が聞こえた。
咄嗟に前髪を抑えて視界を閉ざしたけど、きっともう遅い。
どうしよう。
どうしようどうしよう。
どうしようどうしようどう…したら…。
「大丈夫? そんなに驚かせちゃった?」
目の前に差し出された僕のお箸。
驚きのあまり落としていたらしいことに差し出されて始めて気付く。
受け取らなきゃ、と意識は動くのにそれとは裏腹に手は全く動いてくれない。
「ごめんね。 そんなに驚くと思ってなかったから」
フリーズ状態の僕の耳は優しい声音すら素通りし、周りの景色は時間が止まったように動かない。
何か言わなきゃ、どうにかしなきゃ、と考えれば考えるほどパニックに陥り、パクパクと動かした口からは音にならなかった声だけが零れ落ちる。
ヴ───ヴ───ヴ───…
微かな振動音が沈黙を破る。
それに反応するように指先がピクリ、と振れた。
思うように動かない手を何とか動かし、救いを求めるように振動の元を探す。
震えてるのはブレザーのポケット。
目の前の人の気配は消えることがなく、すぐそこにあるのに焦っているからか中々取り出せない。
何とか取り出したスマホは着信中で、相手が誰だとか確認もせずに通話ボタンを押した。
『柚? 今どこにいる?』
「――えい…し…ッ… … …」
『柚琉?』
一言目とは違う深刻な声が返ってくる。
電話越しの雰囲気で何かを察してくれたのだろう。
助けて、と言いたいのに声を出さなければ来てもらうことも場所を伝えることもできない。
『柚琉? どこにいる? すぐに行くから、場所言えるか?』
「──ッ…」
声にならない音が喉を通りすぎる。
伝えることすら儘ならない。
情けなさ過ぎて視界が滲み始める。
何も起こっていない。
この後だってきっと何も起こらない。
頭では分かっているのに、身体と心がついてこない。
スっと、目の前に手のひらが差し出された。
今度は何も握られていない。
「電話、貸してもらってもいい~?」
殊更優しい声音で近くも遠くもない距離から声がかかる。
きっと怯えさせないようにって気を遣ってくれたんだ。
言葉の意味と優しさは分かるのに、意図がわからず声も出ない。
結局そのまま動けないでいたら、「ちょっとごめんね~」と言いながらスマホを抜き取られてしまった。
「場所、伝えたいんでしょ~? 代わりに言ってあげるから」
どうやら電話越しの瑛士の声まで聞こえていたらしい。
借りるね~、と軽く電話を掲げたその人はそのまま僕のスマホで話し始めた。
「──もしもし?」
『柚?』
「ゆずくんなら、HR棟の屋上にいるよ」
瑛士に合わせた呼び名で僕を呼ぶ声。
――本当に伝えてくれた。
そのままいくつかのやり取りをしていたみたいだけど、瑛士が来てくれるってい事実以外頭に入ってこなかった。
ただその事実だけでも、ほんの少しだけ頭の中がクリアになって止まっていた時間が動き出す。
『すみません。 すぐ行きます』
「うん。 待ってるね~」
そう言って通話を切った彼は、また近くも遠くもない距離でスマホを差し出してくる。
「はい。 お友達、来てくれるみたいだよ~」
何とか手を伸ばし受け取ったスマホを握りしめる。
とにかくお礼を言わなくては、と口を動かしてみるが相変わらず声にはならない。
目が合って声を掛けただけなのにこんな反応をされたら、きっと困っているだろう。
優しそうな声で、すごく気を遣ってくれたのが分かるのにお礼も言えていない。
もしかしたら呆れているのかもしれない。
さすがにもう怒ってしまったのかもしれない。
本当に、僕の目はろくなことをしない。
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