『深い森と僕とアイスコーヒー』

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『深い森と僕とアイスコーヒー』

穏やかに晴れた火曜日の午後1時過ぎ。 僕はリビングで来客者と話していた。 今朝淹れたばかりのアイスコーヒーを来客者はとても喜んで口にした。 近くの保育園の園児の騒ぐ声が網戸にしたリビングの窓から聞えていたが、その声はとても心地よくセンスの良いBGMのように流れてきていた。 なんてことのない平日の午後だ。 僕もアイスコーヒーを飲んでいた。自分で淹れたものだがなかなかのものだった。 「なんてことのない平日の午後だ」とアイスコーヒーのグラスを片手に、確認作業をするみたいに僕は思う。「目の前に座る来客者以外は」とその確認作業に最終チェックを付け加えた。 リビングのテーブルを前に向かい合って座っているのは狼男だった。 そう、いわゆる「狼男」だ。もはや説明の必要もないだろう。 しかし服装についての説明はしておこう。思わず人に話したくなるような好感の持てる服装だったからだ。 いかにも仕立ての良さそうなライトグレーのスーツを着ていた。アンゴラ山羊の毛とウールを混紡した、暑さを感じさせない清涼感のある夏生地を使用したスーツといったところだ。オレンジ色に近い茶系の色で、トラディショナルな小さいドット柄のネクタイを締めていた。履いていた革靴は高価そうだが嫌味のない、たぶんイタリア製のものだった。 とてもお洒落に気を使った、いや、お洒落が好きで楽しんでいるような服装の狼男だった。 「現代の狼男というのは私みたいな男です。人を襲ったり、ましてや人を食べたりする狼男はもはや古典的で、想像上の物語の中にしか存在していません」 彼は玄関口で自分が狼男であることを自己紹介したときにそう語った。 「そういえば、テレビで歌っている方を見かけたことがあります」 最近テレビの歌番組で目の前の彼のような、何人組かのロックバンドが歌っているのを観たばかりだった僕は思わずそれを口にした。 「まあ、彼らは被り物ですがね」と、自分は本物だと言わんばかりに作り物ではない白い髭を揺らし短く笑っていた。 「想像してみてください」と狼男は言った。 「あなたが家族や或いは恋人を失い、たった一人で深い森の中にいるとします」 僕は彼の言うように想像してみる。 それはとても深い森だった。 様々な種類の木々が無計画に生い茂り、秩序のない場所取り合戦の末に、新たなる葉っぱ一枚の侵入者も許さないほどに密集しその緑色を濃くしていた。昼間だというのに太陽の光が遮られ薄闇が形成されている。 そこには誰もいない、僕一人しかいない。 もちろん園児の声も聞こえない。鳥や獣の鳴き声が聞こえなくもない。 「そう、昼間でも薄闇ですが、夜にはまったくの闇になります」 「まったくの闇?」 幼少の頃、仙台の山奥にある母方の実家に夏休みなどに泊りがけで遊びに行っていた。 都会での暮らしになれた僕にとって自然に囲まれたその田舎はとても新鮮で楽しかった。近くの森を走り回りオニヤンマを捕まえたり、川で泳いだりして日が暮れるまで存分に遊んだもんだ。 そんな大好きな田舎だったが、夜になるとその姿は一変した。とても深い闇が襲ってくるのだ。都会のように街灯はない。夜は“まったくの闇”だった。 子どもの僕にはその土地で夜に外に出ることなど考えられなかった。ましてや夜に森に行くなんて。 言い様のない恐怖が子供心を凌いで、現在の僕にも襲いかかるように覆い被さってきた。 「そう、それは恐怖すら感じる闇です。そしてあなたは、その深い森で孤独以外の何ものでもありません」 僕は仙台の田舎で夜は早めに眠った。 夜が怖かったからだ。朝になればまた楽しい遊びが待っている。僕は夜の恐怖を乗り越えるように布団に潜って眠った。 でも、たまに深夜に目を覚ますことがあった。となりには母親が寝ているはずだったがそこに母親の姿がなかった。そこにいたのは母親ではなく暗闇だった。僕は泣いた。僕は孤独以外の何ものでもなかった。 「孤独」というものが何なのかを知る以前の話だ。大人になっても僕は孤独を感じる時、あの仙台の田舎での孤独で不安な夜を思い出す。 「孤独はあなたに不安をもたらします。夜の深い森の中であなたは一人です。絶望以外の何ものでもないと言っていいかもしれません」 「そうかもしれません」 僕は心から「そうかもしれない」と、思わずそう口にした。 「しかし、たった一つだけ、あなたを救うものがあります」と言って彼は勿体振るようにアイスコーヒーをゆっくりと一口飲み、そのグラスをゆっくりと元の位置に戻す。冷えたグラスが拵えた輪染みにグラスの底をぴったりと合わせた。それが暗喩であるかのように、謎解きの答えを語るように彼は言った。 「それは月です」 「そうだ、月だ」と僕も思った。 夜の深い森はまったくの闇であるように想像していたけど、そこには月があるはずだった。月の明かりだけが僕を照らしているはずだった。月明かりの下で、孤独という病魔から救われる自分の姿が思い浮かんだ。あまりにも具象的に。 「もはや、孤独は病魔ですが」と注意深く狼男は言う。「病は医者にかかれば治りますが、孤独という病はなかなか病院では診てもらえません。とても厄介でデリケートな病です」 僕は二ヶ月前に妻と娘を事故で亡くした。僕は生きる希望を失い、十五年以上勤務していた職場を退社し、家に籠りほとんど何もせずに、ただただついこの間まで生きていた妻と娘の記憶と共に過ごしていた。妻が好んだアイスコーヒーを飲み、娘が通っていた保育園の園児の声を聞きながら。 「夜の深い森の中で月があなたを救うように、我が社の製品があなたを救います」 狼男はそう言ってソファーの横に自立して待たせていたやや遠慮がちに膨らんだブリーフケースから、書類などが収められたクリアファイルを出して一旦膝の上に置いた。 その中から厚手のコート紙のパンフレットを取り出して僕に見せた。人間を襲うためにあるような鋭い爪で彼はパンフレットの表紙を優しくめくった。 「家庭用ムーンパネルです。ご存知ですか?」 「ご存知ですか?」と言われても、目の前のそのパンフレットに掲載されている写真は太陽光発電のソーラーパネルだった。 「ソーラーパネルは知っております」と僕は答えた。 彼は人間の骨をも噛み砕きそうな口の端を少しばかり引きつらせて短く笑った。 「これはソーラーパネルではありません。ムーンパネルです」と言って鋭い爪で次のページをめくった。そのページに大体の事がわかりやすくイラストや写真と共に解説されていた。 家庭用ムーンパネルは、構造的にはソーラーパネルと同じで家の屋根に取り付けるのが一般的のようだ。ただエネルギー源が異なる。ムーンパネルは文字通り月の光によってエネルギーを蓄えるのだ。そのエネルギーは、太陽光のように電力として使用するものではなく、主に精神的な生きる力として使用するものだとパンフレットには解説されていた。 「あなたが何らかのことで心を痛めたとき、或いはどうしようもない孤独に苛まれたとき。月の光を蓄積したエネルギーがあなたを救うでしょう」 彼は知っているのだ。僕が妻と娘を亡くし生きる希望を失ったことを。 そして特に夜になるとどうしようもない孤独感に襲われ、子どもの頃の仙台の田舎での夜を思い出し、布団に潜り叫び泣いていることも。 「人間は太陽の光を浴びて生きる希望を漲らせます。しかし、生きる希望を失った人間は太陽を避けます。太陽の光は眩しすぎるのです」 彼はそう言うと獲物となる人間の匂いを嗅ぎ別けるように鼻先をリビングの窓の方に、そこからは見えない太陽の方角に向けた。 「月の光は、やさしく癒してくれます。その月の光を蓄積したエネルギーを一日中満遍なく与えてくれるのが我が社の家庭用ムーンパネルシステムです」 僕は妻と娘を亡くし、それこそ三日三晩泣き暮れた。 やがて涙も枯れ果てた夜に僕は導かれるように庭に出て月を見上げた。 僕が庭に出ると、かつては僕と妻と娘で暮らしていた家の中には誰もいなくなった。僕は家族全員が不在となったその家を思ってまた泣いた。枯れ果てたはずの涙だったが止めどなく溢れてきた。大切なものを思って泣く時のために特別な場所に保管されていた涙がまだあったのだ。 「泣きたいだけ泣きなさい」 月はそう囁きかけてくれているようだった。 「二人はいつもあなたのそばにいます。たとえ姿形は見えなくても。昼間には見えない私がいつもここにいるように」 そう言ってにっこりと笑っていた。 その夜を境に僕はやたらめったらと泣き続けることをやめた。大切なものを思う時にだけ泣いた。特別に保管していた涙を大切にしながら。 「あなたはもう、なるべくなら涙を流さない方がいい。でもそれは無理矢理にそうしろということではありません。自然とそうなることを祈るだけです」 彼は穏やかに優しく語りかけてくれている。人間に恐れられる顔に似合わず月のような笑顔で。 「祈るだけでは心許ないときにも、家庭用ムーンパネルシステムがお役に立ちます」 僕は家庭用ムーンパネルシステム購入の契約書にサインをするために、アイスコーヒーのグラスを横にやり、テーブルに付いたグラスの輪染みを布巾でそっと拭いた。 そこに見えなくなっても月はいつもそこにいる。 少しだけ湿った布巾を僕は握りしめた。
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