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「月はうまいか?」
青鬼は隣で必死に月を食んでいる赤鬼を見やった。赤鬼は、きょとりと瞬いて、そうしてでっぷり膨れた――中身のない――腹を満足げに撫でてみせた。
「うまい」
「お前は餓鬼なんだってな。餓鬼は物が食えんのだろう?」
赤鬼は再度その小さな目を瞬かせた。そうして特に忌避した風もなく、「あぁ」と頷いてみせた。
「全く何も食えんわけじゃあない。そうだなぁ、虫や、泥水、あとはまあ、口にするのもはばかられるようなあれや、それや。
地獄でも食えるものはあったさ」
「それは、本当に食えるものか?」
「それしか食えるものが無かったのさ」
赤鬼は苦笑した。
――餓鬼については、人間の書物で調べた。流石に他の鬼たちもそんなものまでは奪わなかった。
地獄に住まう鬼。地上で罪を犯した人間が落ちた先の地獄で、変わり果てた姿。
その姿は針のような手足に、膨らんだ腹、子供ほどの大きさ。
食う物は須く燃えて、常に飢えている哀れで浅ましい鬼。
「そうさなぁ、地上でのあっしの罪はもう忘れちまった。それでも地上での食い物のことは、毎日毎日思い出していたように思う。
地獄に落ちてからは、いつ地獄から出られるのかと・・・毎日飢えて、飢えて、ひもじくて。
地獄には看守の鬼がいて、そいつらは皆あんたみたく、でっかくて恐ろしい鬼さぁ。
連中に縋りついて、飯をくれ、飯をくれって。やってた」
そのたびに殴り飛ばされていたよ。・・・と溜息まじりに赤鬼は言った。
「飢えて、飢えて。餓鬼同士で食い合ったこともあったっけ。正直、地獄での最期の方の記憶は曖昧なのさ。
ただ、食う物を求めて、まともに目も見えてねえのに、あっちへふらふら、こっちへふらふら、あてどなく彷徨っていたように思う
んで、何日、何年彷徨っていたのかねぇ。
ある日、ふと風を感じた」
何故地獄から出られたのかは、赤鬼にも解らぬという。ただ、気が付いたらこの山にいたのだという。地獄には地上を自由に行き来する者もいるというし、間抜けにも放置された道があったのかもしれない。
そして地上に出ても尚、赤鬼は飢えていた。
「地上でも、食う物が燃えることに変わりはない。
木の根を囓り、土をほじくって虫を捕り、何が混ざっているかも解らぬ泥水をすする。地獄と何も変わらない」
飢えて、彷徨う。
「あっしはずっと地面ばかり見てた。地獄では、食い物はいつも足下にあった。地上に出ても、食い物は足下から探した。
だから・・・ふと、空を見上げた時さぁ。空に、真ん丸でっかい月が、きんきんきらきら輝いているのを見てさぁ。
あっしは感動した」
赤鬼が空を見上げる。青鬼もそれに習った。月は今晩も天に居座っている。満月の、美しい月だ。満ちるのが終わり、今日からまた赤鬼は月を食べる事ができる。
「何というか・・・美味そうだ、と思ったんだ。
菓子みたいだって。周りの星は、きらきらの砂糖。それをまぶした黄金色の南蛮菓子。
噛んだらふんわり柔らかで、口の中いっぱいに甘くなるのさぁ。
あっしは地上の食べ物だけは忘れなかったから。
もうたまらなくなって、空に思いっきり首を伸ばして・・・ぱくり」
夢中になって、食べたのだという。記憶の中の南蛮菓子。とろけるような甘さが一気に頭の中で弾けて、舌を痺れさせ、それはそれは幸せだったのだという。
「食い終わってから、あっしは真っ青になった。
あっしは月を食っちまったんだ。なんてことをしちまったんだって。
だって腹はすっかり満腹になっていて、舌の上にはまだあの甘さが残っていたんだ。その後は空も見ずに山の奥へ逃げ出した」
そして次の日、見上げた月は欠けていた。だから赤鬼は思ったのだという。あれは、あっしが食った分だ。あっしが食ったから月は欠けているんだ。そう思うと、また空腹がぶり返してきた。
――また、月を食った。
次の日も月を食った。翌日、翌々日も。
気が付いたら天から月がなくなっていた。
「けれど、月は満ちる」
「そうだ、さすが月だ。欠けちまっても、また戻ってくる」
満ちて、欠ける。
だから、月が回復するまでの間は、食べない。月が満ちてから、赤鬼は月を食うのだ。
「あっしは、月を食べているのさ」
腹一杯だぁ。
赤鬼は満足そうに寝転んだ。月を食べるなんて、そんな事は無理だと青鬼は思う。思っていた。
だが、もし赤鬼が言う事が本当だったらどうだろう。このちっぽけで痩せぎすの鬼が、あのでっかい月を、本当に食らっていたら?
「なあ、赤鬼よ」
「どうした、青鬼」
「俺はなぁ、月になりたいんだ」
赤鬼は首を傾げて、そうして次の瞬間大口あけて笑い出した。
「そいつぁ、凄い。
なに、あんたみたいなでっかい鬼ならなれるさ。
しかし参ったなぁ、そしたらあっしはもう月を食うわけにはいかん。
あんたを食っちまうことになるからなぁ」
それは寂しいなぁ。赤鬼はぼそりと呟いた。
「しかし、月は欠けても満ちるもんだから。
案外大丈夫だったりするのかもしれん」
続く赤鬼の言葉に、青鬼もようやく喉を鳴らして笑い出した。
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