(十二)

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(十二)

 「ステキ。何て綺麗な夜景なの」  火の山の山頂近くで、すみ子が嘆声を上げた。  眼下には下関の街並みが広がり、灯りが点々と光っている。その光に連なるように、関門橋の灯りが闇に浮かぶようだ。  前方には関門海峡の海が漆黒に広がり、通過する船の光が明滅する。  更に視線を転じると、対岸の九州の街が輝いているのもわかる。  「カオルさんと二人きりで来られて、良かったわ。またとない思い出になるわ」  「ああ…」  すみ子と手を繋ぐカオルが、頷いた。  運休中のロープウェイの乗り場まで歩き夜景を満喫すると、二人は駐車場に戻った。  明日香から借りた赤いワゴン車の運転席にカオル。助手席にすみ子が乗り込む。  「さっきは、ゴメンね」  すみ子が俯いた。  「私と結婚してくれるかどうか、カオルさんにまだイエスって返事は貰ってないわ。ノーとも言われないまま、付き合っているだけ。なのに、お母さんに喜んでいただこうって勝手に考えて、結婚しますって断言してしちゃった」  カオルは、黙して聞いている。  「いやなら、まだ取り消せる。いやならいやって言ってよ」  カオルは、車窓から見える夜景を見ながら、呟くように言った。  「いやになるのは、すみ子さんのほうかも知れない。僕の話を聞いて、いやにならなければ、いいんだが…」  「どんな話?」  「すみ子さんだけでなく、誰にも話したことは、ないんだが…。僕が何故いつも作務衣を着ているのか、なんだ」  すみ子は身を乗り出した。  「あっ! それ、すごく興味あるわ」  カオルは顔を上げ、窓の外の星空を見やった。  「僕の父親は、大きな会社の社長だったんだ。平日は朝早く、僕が眠っている内に出かけて。深夜に帰って来る。休日もいつもいなくてね。殆ど顔を合わせることがなかった」  「お忙しかったのね」  「忙しい…。僕も母も、ずっとそう信じていた。ところが」  「ところか?」  「僕が五歳の時、発覚したんだ。父が帰って来ないのは、仕事が忙しいからではなく、外に女を作っていた」  「やだ…」  「騙されていたことを知った母は、僕を置いて出て行ってしまった」  「それで、離婚された訳ね」 「継母としてやって来たのが、会社の秘書だった女性」 すみ子は手を打った。 「上杉さんが岡上先生から聞き出してくれたの。授業参観に、一人だけ異様に若い人が来てたって。その人がお父様の不倫相手だったんだ」 カオルは頷いた。 「彼女は僕の母親代わりをしようという意志はあったんだけどね。僕はどうしても受入れることが出来なかった」 「だから、岡上先生がお家に遊びにいらしても、出て来なかったってこと?」 「出て来なかったじゃない。友達の前で親として振る舞われるのがいやで、出てくるなって僕が言ってたんだ」 「しんどかったでしょう…。出て来るなって言うのも」 「そこへ、今朝話した中学三年の時の出来事があってね。僕は何もかも失った気分になった…。高校に進学した後も、勉強に身が入らず、スポーツや芸術に打ち込むでもなく…。ただ悶々として時を送っていた」  すみ子が額に眉を寄せた。  「そんな状態じゃ、無理ないわ」  カオルは続けた。  「それで、進学も就職もせずにね。高校を卒業後、独り放浪の旅に出たんだ」  「旅先で、いいことがあった?」  カオルは首を振った。  「いや。三ヶ月程さすらったけど、何もいいことはなかった…。その間、父は事業に失敗してね。継母と一緒に北海道へ引っ越ししていた。結局、家さえもない高雄市に戻って来て」  「戻って来て?」  「近くに、初景山という山があるよね。忘れもしない、七夕の日に…。そこに登ったんだ」  「何か、特別な出逢いがあったのね」  カオルは深く頷いた。  「中学の時の、理科の先生。すでに定年退職されていたんだけど、山中で思いがけず、遭遇したんだ。渓流で、釣りをされていてね。在学中は特別親しくさせていただいた訳ではないが、僕のことを覚えてくれていて…。声をかけてくださったんだ」  すみ子は首を傾げた。  「不思議なものね。生徒のほうはさほどに思っていなかったのに」  「ああ。それに感動して、先生の隣に腰掛けて、しばし語らった」  「どんな話をしたの」  「ふふ。衝撃的だったな…。いきなり、『お前、死にがいは持ってるか』って聞かれたんだ」  「死にがい? 生きがいじゃなくて」  「ああ。死にがい。ある思想家の言葉らしいんだけどね。そのためなら死んでも構わない程の何かを持っているかって。答えは勿論ノーだった」  「そんなもの、私もないわ。今の日本人で、そこまでのものを持ってる人なんて、ごくごく少数じゃない? 殆どの人は、日々眼の前のことに追われて、でなければ生活して行くためのお金のために、毎日あくせくと過ごしている」  カオルは頷いた。  「その通りだと思う。大多数の人は、どこか満ち足りていない。多分、本当の意味で幸せではない」  「ですね…。私、聞いたことがあるわ。世界の先進国の中で、自殺する人の数は日本人が最多だって」  「ええ。子どもを虐待する親、同級生をいじめる少年少女。大人の社会ではハラスメント。これらがあとを絶たない。確かに今の世の中、欲しいものは何でも手に入れることが出来るし、必要なサービスも受けられる。そして、法律の上では平等で自由だ…。だけど」  すみ子が受け継いだ。  「どこか、閉塞感がありますよね。画一的に、こうあらねばならない、みたいな決まりが暗黙のうちにあって。それから少しでもはみ出すと、こっびどく叩かれる。職場なんかではさらに進んで、何事もマニュアル通りに動くことを強制されて、出来なければ無能の烙印を押される。職場以外でも、監視カメラの類が方々にあって、常に監視されている。建て前では平等といっても、格差は歴然としてあるし。これでは、生きがい死にがいどころじゃないわよね」  「その通りだと思うよ。だけど、だからと言って世の中に一切背を向けて、世捨て人みたいに生きていける人はそうそういない」  カオルはすみ子に向き直った。  顎で、身に着けている作務衣を指し示す。  「だからこそ、作務衣なんだ」  「だからこそ?」  「今の世の中、抜き難い閉塞感がある。でも、希望を持つことさえ諦めなければ、そんな世の中でも生きがい、死にがいに辿り着くことだってできる。まずは、そのための第一歩。ほんの少しだけ、世の中の規範に背を向けてみる。そこから何か生まれるかも知れない。だから、作務衣なんだ。作務衣を着たまま授業するなんて明らかに奇矯だけど、僕が眼に見える形で規範から外れて見せることで、見ている誰かが、少しばかり規範から離れても大丈夫だし、自分が本当にやりたいことをはじめてもいいんだって気づいてくれるかも知れない」  「なるほど…。よく、わかりました。その理科の先生とそういったことをお話されたんですね」  カオルは深く頷いた。  「そう。世の中をただ一人の力で変えることはできない。でも、たった一人でも、希望、夢、生きがい死にがいを心の奥で探し求めている人達を助け…否、助けられなくても応援すること位は出来る。特に、将来に不安を抱く若い人達に対して、出来ることは大きい筈だ…。自分は何もかもなくして、空虚だったけど…。でも、そういう経験をしたからこそ、出来ることがあるはずだ。先生との再会で、僕は変わった。自分にも、自分だからこそ出来ることがあるんじゃないかと思い直すことが出来たんだ」  「でも」 すみ子は俯いた。  「悲しくない?」  「悲しく?」  「そんなこと、たった一人でなんて…。そばに寄添って、支えて上げられる誰かがいれば、全然違う筈です」  すみ子はカオルににじり寄った。  カオルに肩を寄せ、眼を閉じる。  カオルはそっと顔を近づけると、すみ子の唇を吸った。 赤いワゴン車は、美しい夜景に溶け込むように、闇に沈んでいる。 その中でカオルとすみ子は、いつまでも抱擁していた。
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