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(十)
「関門トンネル人道入口」と青い文字で書かれた看板を見上げると、すみ子は頷いた。
看板を掲げている建物のゲートをくぐる。
すみ子はスマホで、トンネルの情報を確認した。
(全長、約七百八十メートル。およそ十五分で九州側に行けるのか)
入ってすぐのところにある大きなエレベーターに乗り込む。
(このエレベーター、国道扱いなのか。面白いわね)
三十秒程で、地下五十五メートルに辿り着き、ドアが開いた。
(結構、大きなロビーがあるんだ)
ロビーの壁には下関の観光地の写真パネルが掲げられ、休憩用のイスが置かれている。
(静かだわ。ホントに、静か)
時刻は、五時を回っている。
すみ子の他に、人の気配はない。
更に進むと、トンネルの始点が眼に入った。
トンネルは、ほぼまっすぐ。幅四メートル程のややくすんだ黄色の道路の中央に、白くラインが引かれている。天井は青。
(左右の壁は、グラデーションをつけた青だわ。海底をイメージしてるのね)
壁には、下関名物の河豚をはじめとした魚や、海藻の絵が描かれている。
(確かに、「浪の下」って感じがするわ。想像力を働かせれば…)
誰もいないトンネルに、すみ子の足音だけが静かに響いて行く。
その先に、小さな影が見えた。
「あっ…」
すみ子は、小さな叫び声を上げた。
影は、濃紺。
人間のようだ。
壁にもたれかかって、両脚を抱えて座っているように見える。
すみ子は、影に向かって駆け出した。
濃紺の影は、作務衣だった。
作務衣を着た人物が、すみ子の方を向いた。
「カオルさん!」
すみ子は、躓きそうになりながら、懸命に駆けた。
作務衣の人物が立ち上がった。
井中カオルだった。
長身にして痩躯。端正な顔立ちの男がそこにいた。
すみ子はカオルの胸に飛び込む。
両手に拳を作り、カオルの胸を何度も叩いた。
「何で、逃げ隠れするのよ。何で…。何で」
すみ子の瞳から大粒の涙が溢れ出し、幾筋も頬を伝った。
「すまなかった」
カオルはすみ子の背中に手を回し、包みこむように抱き締めた。
ようやく泣きやんだすみ子から離れると、懐から白いハンカチを取り出し、すみ子の頬を拭く。
「やむを得ない事情があってね。こうするしかなかったんだ」
「やむを得ない、事情?」
すみ子がカオルを正面から見つめながら、言った時…。
「きゃっ」
すみ子はふいに肩を叩かれ、叫び声を上げた。
振り向いたところにいたのは、サングラスをかけた赤いワンピースの女だった。
「ダメよ。カオルさんは絶対、渡さないわ」
すみ子はカオルにしがみついた。
「ふふ。とんだ誤解だな」
カオルは、すみ子の背中に掌を当てた。
女が、サングラスを外す。
すみ子はカオルから離れ、振り返った。
(すごく、綺麗な子…)
抜けるような白い肌に、大きな瞳。艶のある長い黒髪が、肩の辺りまで揺れている。
「紹介しよう。妹の明日香だ。長尾明日香」
「えっ。妹さん?」
「よろしく」
明日香と呼ばれた女が、頭を下げる。
「カオルさんと苗字が違うけど…ご結婚されてるの?」
「いや。結婚はしていない。異父妹なんだ」
「お父さんが違うの? 何か事情がありそうね」
「その辺りは、後でゆっくり話すよ。今、彼女が来たのは」
言いかけるカオルを、明日香が遮った。
「まずは、さっきのお詫びをしなくちゃ。痛かったでしょう」
すみ子は明日香の正面に向き直った。
「痛かった以上に、びっくりしたわ。いきなり殴るんだもの」
明日香はポケットから、ピストルのようなものを取り出した。
「お察しの通り、モデルガンよ。本物なんて持ってないわ」
「GPSはどうしたの」
「今、北海道へ向かうトラックの上。高速道路を疾走してるわ」
すみ子は口をポカンと開けた。
「はあ? 全然、意味わかんない」
カオルが微笑んだ。
「ふふ。わからなくて当然だ。ちょっと長くなるけど、順を追って説明しよう」
「お願い。カオルさんに関わることは、何でも聞きたい」
すみ子は、カオルを上眼遣いで見つめる。
「僕と明日香の実の母親。小百合って名前なんだが…。脳梗塞で倒れてしまってね。一月程、昏睡状態が続いているんだ」
「それは、大変…」
「僕と明日香の家同士は、長年断絶状態だったんだけど…。母がそんな状況だから顔を見るだけでもと、明日香が僕の所在を探してくれてね」
「よくわかったわね」
すみ子が明日香に視線を向ける。
「井中カオルって名前だけは知っていたからね。ちょっと前に、中学教師がお寺に監禁されて殺されそうになった事件があって、新聞ネタになっていたでしょ。『高雄中学教諭、井中カオルさん』って出てたから、ビンと来たのよ」
すみ子は苦笑し、自らを指差した。
「一緒に監禁されたのが私だわ」
カオルが話を戻す。
「明日香は入院中の母に僕を対面させてくれる積もりだったんだ。ところが、思わぬ障害が起きてね」
明日香が眉を寄せた。
「私のほうの父。景一郎(けいいちろう)っていうんだけど。兄を母に会わせるのに、大反対を始めたの」
「大反対?」
すみ子が首を傾げる。
明日香は頷いた。
「父景一郎から見て、兄のお父さんは母を苦しめた不倶戴天の敵。その息子である兄も敵ってワケ」
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってやつね」
「どうしても対面しようっていうなら、腕ずくでも止めるって息巻いたの。父は若い頃ボクシングをやっていて、腕っ節が強いし。本気で暴力沙汰になったら、大変なことになるって感じたの」
カオルもまた、眉をひそめる。
「GPSを身に着けていれば、すみ子さん達が追って来るのは眼に見えている。僕が狙われるのはある程度仕方ないとしても、僕と一緒に行動することですみ子さん達が巻き添えになることは防ぎたかったんだ。それで、二十四日の夜遅くに下関に着いてすぐ、明日香と落ち合って、GPSを渡してしまったんだ」
「そういうことだったの」
すみ子は手を打った。
「私達は、GPSを頼りに海峡ゆめタワーに行った。私は展望室をくまなく回って、太田君は出入り口に張り付いて貰った。それでもカオルさんに会えなかったのは、当然だったのね」
カオルは頭を垂れた。
「済まない。僕はゆめタワーに足を踏み入れてさえいなかった」
「で、次に登ったのが、火の山」
すみ子の言葉に、明日香が答える。
「あなた達は、火の山でもGPSを見て私を追いかけていたことになる。でもここで、大きな計算違いが生じてしまったの」
「どんな計算違い?」
明日香は俯き、右手拳を握り締めた。
「昨日、私が外出した瞬間からずっと、父に尾行されていたの。父は私が兄に会う筈だと、確信してたのね。山頂近くの駐車場で私がワゴン車に乗り込んだ時、あなた達のすぐ後ろに父がいたのよ」
「全然、気が付かなかったわ」
「私の車に兄が乗っているのではと、こっちを睨んでたわ。だから父をちょっと牽制する積もりで、急発進したの」
「私達を轢こうとしたんじゃなかったのね」
明日香は頷いた。
「勿論。でも、ここからが計算違い…。父は野性的な勘が働くのよ。私のその行動で、あなた達が兄を追いかけていることが知られてしまった」
「私達が車を、じっと見てたからね」
「そう。で、そこからは私を尾行するのは止めて、あなた達の後を尾けることに切り替えてしまったみたいなの」
「やだ。尾行されてたなんて」
「私はドローンを飛ばして、様子を見ていたんだけど。あなた達が火の山を歩いて下りる間、ぴったり後ろに付いていたわ」
カオルが口を挟む。
「このままではすみ子さん達が危険だと考えたんだ。GPSを使って明日香を追いかけるのは一時中止して貰って、暫くホテルにでも閉じ籠もってくれたほうが安全かと。時間を置けば、景一郎さんも諦めてくれるんじゃないかと期待してね」
すみ子はまたも、手を打った。
「それで、巌流島でGPSの電源を切っちゃったワケね。私達の眼につく場所に、トートバッグを置いて」
カオルは頷いた。
「あの古びたバッグ。すみ子さんはたびたび見てるから、すぐにわかるだろうと踏んだんだ」
すみ子は俯いた。
「でも私、金庫の暗証番号がわからなくって。太田君が暗号を解読してくれなかったら、挫折しちゃうところだったわ」
明日香が腕を組んだ。
「まあ、ちょっと綱渡りだったけど、『明日正午。赤間神宮』ってメッセージは伝わった。でも、父の執念は兄の作戦を上回っていたの」
「どういうこと?」
「ドローンで様子を見ていたんだけど。父は巌流島からあなた達が離れたあとも、ずっと尾行してたの。あなた達がチェックインしたビジネスホテルの向かいに、コンビニがあるでしょ。あそこから一晩中、あなた達が出入りしないか監視していたらしいのよ」
すみ子は、右手で両眼を覆った。
「娘さんに言うのは、申し訳ないけど…。執念深すぎて、ちょっと気持ち悪いわ」
「遠慮しなくていいわ。ホントに執念深いもの」
「で、結局今日。赤間神宮まで尾行されていたってことね」
明日香が首を、縦に振った。
「私はドローンにGPS発信機を載せて、赤間神宮の上空を旋回させていたの。次の行き先、壇ノ浦へあなた達を導く赤い封筒を落とすタイミングを見計らっていた」
「なるほど。上空で発信機が回っていたから、カオルさんがいるように錯覚させられたのね」
明日香は眼を閉じた。握り締めた拳が、微かに震えている。
「ええ。ところが封筒を落とす前に、父が動いてしまった」
すみ子もまた、眼を閉じた。
「石を投げて太田君に大怪我を負わせた、グレーのコートの人物。あれが、景一郎さんだったワケね。私達はカオルさんでも明日香さんでもない、『第三の男』って呼んでたけど」
明日香は深々と頭を下げた。
「父がとんでもない暴力行為を起こしてしまって。防ぐことができなかったのは私の責任。お詫びのしようもないわ」
カオルが、すみ子の肩に手をやる。
「太田君の具合はどう? まだ病院にいるのかな」
「少し熱があるから、念のため病院に留まっているの。熱が下がったら、今日中にでも退院していいって、お医者様はおっしゃっていたわ…。上杉さんが付き添ってくれてる」
「なら、とりあえず安心だな」
すみ子は眉を寄せ、明日香に視線を向けた。
「中学生の女の子を狙って、石を投げたように見えたんだけど…。もしも顔に当たって傷が残ったりしたら、一生の問題じゃない。何でそんなことしたのか、見当つく?」
明日香はまた、眼を閉じた。
「あくまでも私の、推測だけど…。父は少し、キレやすいの。兄はなかなか見つからないし、徹夜であなた達を監視してたりでイライラしてしまって、無茶苦茶に投げたんだと思うわ。女の子を狙った訳じゃない」
明日香は眼を開けた。
「いずれにしても、これ以上父を放置しておくのは危険。兄を母に面会させるのも難しいし…。新たな手を打つことにしたの」
「新たな、手?」
明日香は頷いた。
「父を下関から引き離してしまう手。兄がアイデアを出してくれたの」
カオルが、話を受け継ぐ。
「GPSを上手く使うことを、思いついたんだ。僕が発信機を身に着けていて、すみ子さん達がそれを頼りに僕を追いかけていると景一郎さんに思っていただく。その上で受信機をすみ子さんから景一郎さんに渡るようにする。更に発信機を下関から遠ざけてやれば、景一郎さんは受信機を使って発信機を追跡する筈だ」
「わかったわ!」
すみ子は手を打った。
「それで私から受信機を取り上げたワケね。だから『悪いようにはしないわ』って言ったんだ」
「父が物陰から見ていたがら、乱暴してしまって…。ごめんなさい」
明日香は首を垂れた。
「あの後すぐに火の山に登って、ドローンを飛ばしたの。下関インターチェンジが眼の前でしょ。高速道路に入って北海道へ向かうトラックを見つけて、荷台に発信機を落としたのよ」
「それから、景一郎さんに会って…」
「まだみもすそ川公園にいたから、受信機を渡して…。後は勝手にしたらって突き放したら、案の定車で高速道路に向かって行ったわ」
「なるほど。いずれはトリックに気がつくかもしれないけど。ある程度、時間が稼げるわね」
明日香ははじめて、微笑みを浮かべた。
「そういうこと。今日はもう遅いから無理だけど、明日にでも兄を母に面会して貰えるわ」
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