(十一)

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(十一)

 「あの旅が、僕の人生の中で一番辛い旅だったな…」  翌、二十七日の朝。  病院へ向かう赤いワゴン車の中で、作務衣を身に着けた男が呟いた。  カオルである。  ワゴン車を運転しているのは、明日香。助手席に灌二が座り、後部座席中央にカオル。その右にすみ子、左に美希。  右側の車窓には、関門海峡の海が碧く輝いている。  眼を細め、白くさざめく波を見やりながら、カオルが続けた。  「忘れもしない…。中学三年の一月。僕の家でボヤがあってね。父の煙草の不始末で、書斎の一部が焼けたんだ」  すみ子は、黙したままカオルの横顔を見た。  「で、燃えかけた書類の中から、一枚のメモが見つかった」  「メモが?」  カオルは頷いた。  「母の離婚後の住所が書かれたメモだった…。慰謝料の支払いの関係上、保存してあったんだろう。母が離婚したのは、僕が五歳の時。名前だけは知っていたが、住所は父が決して教えてくれなくてね。その時はじめて知ったんだ」  「それが、下関だったってことね」  「五歳で別れて以来、母とは会ったこともなく、電話も手紙も貰ったことはない。だからこそ、無性に恋しくてね。下関は本州の一番西。関東に住む中学生にとっては、果てしなく遠いところだったが…。住所がわかるなら会いに行ってみたいと思うまでに、時間はかからなかった」  すみ子は、そっと左手をカオルの膝元に伸ばし、手を握った。  「それが、『見るべき程のものを見て来る。追わないで欲しい』だったんだ…。今回も同じ。『見るべき程のもの』って、お母さんに会いに行くという意味だったのね」  「ああ…」  カオルは、遠くを見る眼差しになった。  「すぐに夜行バスに乗って、下関に着いたんだが…。父のメモの住所に行ってみたら更地になっていた」  「引越されていたんだ」  「諦められなくて、近所の古そうな家を訪ねて回ってね。十日探して、ようやく移転先がわかった」  「で、早速向かった」  すみ子が握るカオルの手が、次第に熱を帯びて来ている。  「市街地から離れた、海岸沿いの一軒家だった…。呼び鈴を押す時、心臓が異様に高鳴ったのを憶えている。震える程だった」  カオルは、空いているほうの左手で、眼を覆った。  「だけど…。呼び鈴に応えて出て来たのは、母ではなかった。僕の父と同じ年頃に見える男性。母は、再婚していたんだ。今思うと、その男性が景一郎さんだったんだ」  カオルは唇を噛み締めた。  「その男性。景一郎さんはただ一言、言った。『小百合はあんたに会わないと言っている』、と…。僕は会わせて欲しいと粘ったんだが、彼はその一点張り。結局、門前払いの形になった」  「それは、随分ひどいわね。実の息子が遠路はるばる訪ねて行ったのに」  カオルは眼を押さえたまま、絞り出すように続けた。  「僕に会わないのが、母自身の意思なのか。それとも母に取り次ぎもせず、景一郎さんが独断で止めたのか。どちらかはわからなかった。いずれにせよ…」  すみ子が握るカオルの右掌に、汗が滲み出ている。  「谷底に突き落とされた心持ちになった…。自分が生きて来た十五年は、無意味だったのか…。自分は存在してはいけない人間だったのかと…」  助手席にいる灌二の背中が、震え出した。  「灌二君。あなたが泣くことないでしょう」  後ろから美希が、ハンカチを差し出す。  「だって、悲し過ぎるよ。今の話…」  灌二は、嗚咽しながら、鼻水を啜った。  運転していた明日香が、左にハンドルを切る。  ワゴン車は、緩やかな坂を登りはじめた。  ワゴン車の向かう先に、「下関平成病院」の看板と、茶褐色の大きな建物が見えて来る。  その手前にある駐車場に進入すると、明日香はブレーキを踏んだ。  エレベーターのドアが開く。  明日香を先頭に、カオルとすみ子、灌二と美希が並んで進む。  白い壁と天井に囲まれた廊下。白衣の医師が歩き、医療器具を積んだ台車を、看護師が押している。  三階の病棟の西寄りに、「長尾小百合様」の名札が掲げられた病室が見えた。  「ここよ」  明日香がドアを開けた。  「重症だし。個室をお願いしてるの」  病室の中央にベッドが一つだけ置かれ、女性が一人横たわっている。  鼻筋がすっと通った瓜実顔。短く刈られた頭髪には、少し白いものが混じっている。  胸の上に組んだ腕を載せ、眼を閉じたまま微動だにしない。一見、眠っているようにも見える。  左腕に付けられているのは、点滴の管。  窓際には、赤い花を咲かせたシクラメンの鉢。  窓から差し込む陽の光が、女性の顔を白く照らしていた。  「十一月の二十四日に自宅で倒れて。意識を失って救急車で運ばれたの。それ以来、一度も意識が戻っていないのよ」  すみ子が、明日香に目を向けた。  「お医者様は、何ておっしゃってるの」  「脳梗塞自体は回復に向かっている、ということなんだけど。何故昏睡状態が続くのか、今一つ原因がはっきりしないそうで…。様子を見るしかないと」  「母さん」  カオルがベッドに歩み寄り、小百合の手を取った。  「母さん…」  カオルはベッドの前で跪き、再び声をかけた。  その刹那である。  「あっ」  明日香が、低く声を上げた。  「鼻が…。母さんの鼻が動いたわ」  「一瞬ですけど…。匂いを嗅いだように見えました」  後方に立つ、美希が呟くように言った。  小百合の口元が微かに動き、ほんの少し動いた。  「カオル…かい」  「はい」  小百合がゆっくりと、眼を開いた。  「カオル。あんたの匂いは決して忘れない。すぐにわかったよ」  カオルの顔をまじまじと見ながら、小百合が言った。  カオルは、小百合の手を固く握り締めた。  明日香が眼を瞠る。  「信じられない…。一月、眠ったままだったのに」  「こんなに大きく、立派になって…」  小百合は、ひとこと一言噛み締めるように続ける。  「十年前になるかね。カオルが下関まで来てくれた。その日のこと、よく憶えてるよ…」  カオルは、小百合の手を握ったまま、黙して聞いている。  「カオルがウチの玄関先まで来てるって、景一郎さんが教えてくれたの。一瞬飛び上がって、玄関まで駆けていこうとした。でも…」  小百合は窓から見える景色に、視線を転じた。  関門海峡の海が、どこまでも碧く広がっている。  「でも、一度会ってしまうと、どうしても離れられなくなる。私は景一郎さんと再婚して、明日香を産んだ。別々の家庭に分かれてる以上、会わないほうがお互いにとって一番いいと思ったんだ」  小百合は、カオルの顔に視線を戻した。  「その時はそう思うことにしたんだ。けれど、全く反対だったよ」  小百合の眼に、熱いものが込み上げはじめている。  「その時会わなかったばっかりに、カオルのことが忘れられなくなってね。いつもいつも、カオルの事を考えていた。美味しいものを食べてるだろうか。風邪ひいていないかってね…」  「母さん」  カオルは眼を閉じ、小百合の布団に顔を埋めた。  「夢を見たんだよ」  「夢?」  カオルが顔を上げる。  「朝、洗濯物を干してる時。急に世の中が真っ白になってしまってね。それからずっと、夢を見ていたような気がするんだ」  小百合は、カオルの眼を覗き込んだ。  「どこまでもどこまでも続く、真っ暗なトンネルがあって。トンネルの先に、白い光が見えてね。そこからは、広い広い、お花畑だった。赤や青や黄色。緑の葉も混ざって、えも言われぬ美しい景色だったよ…。そこで、会ったんだ」  「会った?」  「はじめは後ろ姿でね。でも、何故かわからないけど、お地蔵様だって確信したんだ」  「お地蔵様?」  「ああ。次の瞬間、お地蔵様が振り返った。お地蔵様は、カオルの顔をしていたんだ。そこで、眼が覚めたのさ」  「奇跡だわ」  明日香が、小百合とカオルが握っている手の上に、掌を重ねた。  「十年も会っていなかったのに、母さんには兄さんが訪ねて来るのがわかっていたのね…」  明日香は、カオルの横顔を見る。  「母さんが目覚めたのは、兄さんのお陰。このことを話せば、父さんも必ず、わかってくれる」  明日香は、重ねた掌に、力を込めた。  「今回は父さんを騙すようなことを、しなければならなかったけど…。これからは家族として、分け隔てなく過ごしましょう」  「あの…。私」  カオルと明日香の後ろに、すみ子が進み出た。  「中山すみ子と申します。近いうちに、カオルさんと結婚することになっています」  小百合が眼を見開いた。  「何て、ありがたい…。よく顔を見せて」  明日香が手を離し、すみ子に場所を譲る。  すみ子が、カオルと小百合の手の上に掌を重ねた。  「こんなに綺麗な、暖かそうな人がお嫁に来てくれるなら、カオルは幸せ者だわ」  「いえ。綺麗じゃありませんけど」  小百合の眼が充血し、熱いものが流れはじめた。  「私は母親として、カオルに何もしてやれなかった…。こんなこと、言う資格はないけれど。どうか私の分まで、カオルを幸せにしてやってね」  小百合は涙を流しながら、満面の笑みを浮かべた。  
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