(五)

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(五)

 ビジネスホテルの一室で、内線電話のベルがけたたましく響く。  ビクッとして、すみ子は眼を覚ました。  眼をこすりながら、受話器を取る。  電話して来たのは、別室に泊まっている灌二だった。  「太田君? ゴメン。寝坊しちゃって、今起きたトコ」  「昨日はいろいろあって、お疲れでしょう」  「大丈夫よ。今から朝ご飯食べる?」  「それなんですけど…。今からちょっと、外出して来ていいですか」  「どうしだの」  「ついさっき、上杉美希さんから電話がありまして。彼女、学習塾の冬季講習が昨日までだったんです。で、終わってからすぐに新宿に出て、夜行バスに乗って。十時半頃下関に着くそうなんです」  「それなら、ちょっと待ってて。すぐに支度するから。一緒に行こうよ」  すみ子と灌二が下関駅前で美希を迎え、近くの喫茶店に入ったのは、それから間もなくのことである。  美希は、セーラー服の下にピンクのベスト。寒さのせいか、透明感のある頬にほんのりと赤みが差している。  「電話でも言ったけど、井中先生はまだつかまってないんだ」  「やっぱり先生、大変なことになってそうね。で、何かの参考になるかと思って…」  美希は、すみ子のほうを向いた。  「勝手なことをして、申し訳ないんですけど。岡上トキオ先生に、井中先生の子供時代のことをいろいろお聞きしたんです」  「ああ。岡上先生って、井中先生と中学時代同級生だったんだよね」  「そうなんです。クリスマス会の時、中山さんが井中先生は家族の話を決してしないっておっしゃったのが、気になりまして…。岡上先生がご存じのことがないか、探ってみたんです。中山さんを差し置いて、申し訳ありません」  「遠慮しなくて、いいのよ。私もそれ、是非聞きだいわ」  すみ子は身を乗り出した。  「井中先生と岡上先生は、私達の先輩になります。高雄中学のご出身」  「ええ。私もだけど」  すみ子はコーヒーカップを左手に持ったまま、右手で自らを指差した。  「中山さん、井中先生のお宅には?」  すみ子は手を振った。  「まだ、行ったことないのよ。結婚する積もりな割には、遅れてるけど」  「私と太田君は、何度かお邪魔してまして」  「2LDKの普通のアパートだよね。一部屋が先生の研究室だから、住まいとしては実質1LDKっておっしゃっていた」  「ところが、ですね」  美希は、首を傾げた。  「中学時代、井中先生はすごい豪邸に住んでいらしたらしいんです」  「へえ。意外ね」  「岡上先生によると、高雄市内では一番大きなお家だったって。赤レンガの高い外壁をどこまでもどこまでも歩いて、やっと表門にたどり着くと、駐車場があり…。停まっているのは、高級車のロールス・ロイス」  「何それ。今のカオルさんのイメージと全然違う」  「表門をくぐっても、まだお屋敷は見えない。広い広いお庭があって。噴水付きの池やプールやテニスコート。数百本はありそうなバラ園もあって。個人のお家とは思えない贅を尽くした様子だったそうです」  「さぞかし、お屋敷も立派だったんでしょうね」  「ええ。ヨーロッパの王族の御殿を思わせるような、華麗な建物だったんですって。ただ…」  「ただ?」  「何度かお庭までは行ったんだけど、お屋敷に入れては貰えなかったそうです。ご家族の方々も一度も顔を出さなくって」  「ちょっと、不思議な家ね。息子さんの友達が遊びに来てるのに、全く顔を出さないなんて」  「その豪邸って、今でもあるのかな」  灌二の問いに、美希は小首を傾げた。  「岡上先生と井中先生は高校・大学は別のところに進学して、会うことが稀になってしまったんだって。教師として高雄中学で一緒に働くようになった時には、井中先生は大金持ちの坊ちゃんではなく、アパート暮らしに変わっていて。いつの間にか、かつての豪邸は跡形もなくなり、今は更地なんだそうよ」  「へえ。一体何があったんだろう」  「その辺りの事情は、本人に聞いても教えてくれないそうで」  美希は、すみ子に向き直った。  「家族絡みで、もう一つあります。授業参観です」  「そこはさすがに、ご家族がいらしたのかな?」  「岡上先生は、井中先生のお家に絶対に入れて貰えないのを不審に思っていた。授業参観の時どの人がご家族なのか、注意深く観察していたそうなんです」  「よく見ていれば、どの人が誰の家族かわかるからね」  灌二が美希を見る。  美希が頷いた。  「岡上先生は、参観されている父母の方々を片端から眺めていったそうよ。中学生だから、親の世代って三十代から五十代じゃない。その中に、二十代と思われる女性がいて。この人なのかな、と直感したんだって」  「二十代?」  「すごく短いスカートを穿いて、胸元もあらわにして。お化粧も派手。授業参観に来るようなPTAの人には全く見えなかったそうなの」  (ひょっとして、あの女?)  すみ子はドキッとした。脳裏に、火の山で見たサングラスの女の記憶がよぎったからである。  (何とも、いえないか…。遠眼で見ただけだからなあ…)  「井中先生をあとで問い質したら、確かにその人が自分の関係者だと…」  「関係者って、どういうこと?」  「井中先生のご両親は一度も授業参観にはいらっしゃらなかったらしいんです。その若い女性はお父さんの会社の秘書の人。親族ではないそうで」  すみ子は眉をひそめた。  「三年間一回も来ないなんて、随分冷たいわね」  「そうですよ。私のところなんか、両親は勿論、父方母方の祖父母が揃って来たりするんですよ。恥ずかしいからやめてって言ってます」  「ふふ。あなたは周りじゅうから愛されて育って来たのね。何となくわかるわ」  すみ子は口元に拳を作って、笑った。  「お弁当はどうしていたんだろう。ご家族は作ってくれたのかな?」  灌二が問いかける。  「お弁当を持って来たことは、一度もなかったって。お昼に校外に出るのは原則禁止だったんだけど、井中先生は勝手に抜け出して。近所のコンビニで百円位のパンかお握りを買って、一人で近所の公園のベンチで食べてたそうよ」  すみ子は眉を曇らせた。  「ちょっと、孤独だったのかな?」  「岡上先生も、そうおっしゃってました。お昼以外の休み時間も、大抵は一人で本を読んでいて。周りがおしゃべりやゲームなんかで盛り上がってても、全然見向きもしなかった、と…。唯一親しかったのが岡上先生だったということらしいです」  「岡上先生とだけは、どうして親しかったんだろう?」  灌二は腕を組んだ。  「僕の知ってる岡上先生は、授業開始の五分前には教室前に来ていて、ピッタリ開始時間から始めてチャイムと同時に終わる。井中先生は、開始も終了もバラバラ。性格的に、合わないように思うんだけど」  美希は微笑み、眼を輝かせた。  「ふふ。私もそう思うわ。岡上先生の職員室の机はいつも整頓されていて、綺麗。井中先生のはワケのわからないものが雑然と積み上げられてるもんね」  「特別に何か、親しくなる事情があったのかな?」  「そういうことらしいの」  美希が頷いた。  「岡上先生は小学生の時、交通事故で重傷を負われた」  「それで今でも右足が不自由で、杖を突かれているんだよね」  「で、事故の後遺症が中学入学当初に出て、しばらく入院されたそうなの」  「入学直後ってただでさえ不安なのに…。さぞかし心細かったんだろうね」  「井中先生は、その時現れたお地蔵様だったんだって」  「お地蔵様?」  「まだ全然、話なんかしたことないのに、真っ先にお見舞いに来てくれて。授業のノートのコピーを毎日学校帰り道に持って来てくれたのが、何より嬉しかったって」  「それってすごいことだよね。なかなか出来ることじゃない」  「退院してからも、歩くのが不自由な岡上先生に肩を貸してくれたり、重い荷物を持ってくれたりと、本当に優しく接してくれたそうなの。それ以後、誰よりも親しくなったんだって」  「カオルさん、中学の時から優しかったのね」  呟くように言いながら、すみ子の想いは三ヶ月前に遡っていた。  
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