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(九)
バスを降り、みもすそ川公園に近づいたすみ子の耳に入ったのは、花火打ち上げに似た音だった。
ドーン。ドーンと、少しずつ間を置きながら、音が続く。
「みもすそ川公園は幕末、下関戦争の際長州藩の砲台があったところなんです。それに因んで大砲のレブリカが海峡に向けて設置されていて…」
病院のベッドに横たわったまま灌二が話してくれたのを、すみ子は思い出した。
(コインを入れると、音が出るんだ)
大砲に張り付いているのは、散歩途中と見える親子連れ。父親に抱き抱えられた少年が、硬貨を受け口に入れる。
ドーンという大きな発射音が響き、煙が上がった。
(なるぼど。面白い趣向ね。少しだけど、気分が和むわ)
立ち上る煙が消えて行く。
煙が消えた先に、海が見えた。
傾きかける陽の光を受け、海が碧色に輝いている。
(思っていた以上、ね…)
碧の絨毯にも見える海面が白い飛沫を上げつつ、西の方向へ流れる。
(海なのに、大きな川の下流よりも早く水が流れてる。実際に見てみると、すごい迫力)
「壇ノ浦は、関門海峡の中でも一番九州との間隔が狭い。だから流れが早いんです。しかも、一日に四回も流れの方向が変わる」
「灌二君の大好きなテーマね」
美希が眼を輝かせた。
「壇ノ浦の戦いの時には、はじめのうちは平家軍が上流にいたので優勢でした。時間の経過とともに流れが変わると源氏のほう俄然有利になり、形勢が逆転したとされているんです」
灌ニの解説を思い出し、すみ子は一人頷いた。
(確かに、この流れはすごい。ある意味、歴史を左右した流れなのね)
現代の壇ノ浦は、八百年余り前に歴史を変える戦いがあったことがまるで嘘のようだ。
巨大な関門橋がかかり、その下を大小の船が行き来する。
海辺に近い辺りには家族連れや男女のカップルなどが、楽しげに散策している。
すみ子は公園内を見回した。
ニ体のモニュメントが、海を背景に建っていた。
一方のが、壇ノ浦の戦いの源氏側大将、源義経。
もう一つが、平知盛。
義経の像は、所謂「八艘飛び」。戦いの際、海上に浮かぶ船を次々と飛んで渡ったという説に基づくもの。
知盛のほうは、碇を担いだ姿。「見るべき程の事をば見つ」と叫んで入水した時の様子を表したものだ。入水した後の遺体を敵方に見られないため。あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物にならぬために担いだといわれるものである。
「見るべき程のものを見て来る。追わないで欲しい」
すみ子の脳裏に、カオルから受け取ったメールの文が蘇った。
(知盛さんの「見るべき程の事」は、栄華を誇った平家の滅亡…。その言葉をあえて引用してるんだから、一生に関わる位の大事な何かがある筈)
すみ子は頬に人差し指を当てた。
(中三の時は好きな女の子が転校してちゃって、下関まで追いかけて行った。今は私が結婚を迫ったから、その子が忘れがたくて会いに行った?)
「うーん。わからない」
すみ子は首を左右に振った。
振りながら一歩前へ進むと、小さな灰色の石碑があった。
(これだわ。太田君が教えてくれた石碑。平時子さんの辞世の歌)
「今ぞ知る みもすそ川の御流れ 波の下にも都ありとは」
すみ子は、声に出して読んでみた。
(みもすそ川っていうのは、伊勢神宮の端っこを流れている五十鈴川(いすずがわ)の別名。伊勢神宮は天皇家の祖先、天照大神を祀っている。つまり、みもすそ川の流れとは、天皇家の血流を汲む安徳天皇のこと…。その天皇が波の下に沈むことを慨嘆した歌ってことかな)
すみ子はスマホを取り出し、時刻を確認した。
(もう、四時を少し過ぎているわ…。太田君の推理が当たっていれば、カオルさんが現れてもいい頃だけど)
季節柄、日没が早い。陽が西に傾きかけ、空が暗くなって来ている。
人通りが少なくなる中辺りを見回すが、カオルの姿は見当たらない。
すみ子は、鞄の中からGPSを引っ張り出し、電源を入れた。
(発信機からの信号、途切れてる…)
ふうと、ため息を吐く。
すみ子は受信機を鞄にしまうと、空を見上げた。
「赤い封筒を積んでる、ドローン。いないかな」
が、そこには赤く染まりかけた夕焼け空があるばかりだ。
(仕方ないわ。しばらく待つしか…)
すみ子は近くのベンチに腰掛け、海峡を行き来する船をぼんやりと眺めた。
汽笛を鳴らし、大小の前泊が波を切って行く。これ
陽が沈み、人通りがすっかり途絶えた時。
「うっ」
背後から金属と思われる棒状のものを突きつけられ、すみ子は呻き声を上げた。
すみ子は首だけを曲げ、後ろを振り返った。
「あなたか」
「あなたかはないでしょ。これが初対面」
サングラスをかけた、赤いワンピースの女だった。
「話すのははじめてでも、顔は見てるわ。火の山で轢かれそうになったし」
「まあね」
女は、口元を歪め、笑った。
手にしている棒状のものに、力を籠める。
「あんたの背中に突きつけられてるもの。何だかわかってる?」
「ピストルみたいに感じるけど…。どうせ、モデルガンでしょ」
女は、首を振った。
「本物のピストルよ。疑うなら、あんたの背中に一発撃ってあげてもいいけど」
「それはゴメンだわ。でも、一般市民ならピストル持てないでしょ? あなた、何者なの」
「さあ」
女は、口元に笑みを浮かべた。
「何が目的なの? 私が恋敵だから、殺したいワケ?」
「殺したいんじゃないわ。一つ、欲しいものがあるの」
「欲しいもの?」
女はすみ子が脇に置いている、鞄を指差した。
「GPSの受信機。そこに入ってるわよね」
「何で知ってるの? 私が持ってること」
「いいからよこしなさい。悪いようにはしないわ」
すみ子は鞄を胸元に引き寄せ、抱きしめた。
「これはカオルさんの持ち物。見ず知らずのあなたに渡す理由はないわ」
「よこしなさい!」
女はピストルらしきものを振り上げると、すみ子の背中をしたたかに打った。
「ぐふっ」
すみ子は鞄を取り落とし、前のめりに崩れ落ちた。
女が素早く鞄を拾い上げ、ファスナーを開ける。
受信機を持ち上げると、すみ子の眼前に翳す。
「いただいて行くわ」
「返しなさい。返せ!」
倒れ込んだまま、すみ子は懸命に手を伸ばす。
「そうそう…」
鞄を投げ捨てながら、女が笑った。
「一つ、いいことを教えてあげる」
「いいこと?」
殴打された背中を押さえながら、すみ子が呻いた。
「平時子の時代には、『浪の下』って海中と海底だったでしょ。でも今は違う。他にも『浪の下』があるはずよ」
「他にも?」
女は手を挙げ、背中を向けた。
道路に停めてあった赤いワゴン車に乗り込み、急発進する。
ワゴン車は、あっという間にすみ子の視界から消え去って行く。
「とうとう…」
地面に横になったまま、すみ子はため息を吐いた。
「何もなくなっちゃった…。カオルさんを追いかける手がかり」
カオルは結局姿を見せないまま。赤い封筒を落としてくれるドローンも飛んでいない。GPSも奪われてしまった。
「どうすればいいの? どうすれば…」
(諦めて高雄市に帰れってことなの? カオルさん、教えてよ)
ぼんやりと周囲を見回すすみ子の視界に、ふいに白い看板が映った。
「あれ、何だろう」
薄暗がりの中、すみ子は半身を起こし、前方に眼を凝らした。
「関門トンネル人道…入口?」
(関門トンネルって、鉄道と車道だけじゃない。人が通れる道もあるのか)
「平時子の時代には、『浪の下』って海中と海底だったでしょ。でも今は違う。他にも『浪の下』があるはずよ」
すみ子の脳裏に、ついさっきサングラスの女から言われた言葉が蘇った。
「そうか! わかったわ」
すみ子は立ち上がった。
「海中と海底の他にある三つ目の『浪の下』は、トンネルだって意味なんだ」
トンネルの入口へ一歩踏み出しかけて、すみ子は立ち止まった。
(でも、あの女が言ってたことだからなあ…。何かの罠かも)
すみ子は首を振った。
(ええい。この期に及んで、何を迷っているんだ)
眼の前に、泣きながら高雄市から送り出してくれた美結。自分のせいで大怪我をさせてしまった灌二の顔が浮かぶ。
(どんな結果になっても、構わない。結果を恐れず、私の手で決着させてやるんだ)
すみ子は、トンネル入口へ向かって、走り出した。
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