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今日もまた、一睡もせずに夜が明けた。
このまま不眠に悩まされ続けたら命に関わると思い異動願いを出し、ようやく受理されて遠い地まで引っ越してきたというのに、眠れないのは変わらなかった。
飯塚晶は、ぐったりと重い体をベッドから引きはがすように起こして、長めの前髪をくしゃくしゃと乱した。
「……仕事、行かなきゃ……」
ベッドから降り、ため息を吐く。ベッドの傍のサイドテーブルには病院から処方された薬の空の包装が転がっている。
あまり効かなくなってきたな、と晶はそれを一瞥して洗面所へと向かった。
晶が眠れなくなったのは、少し前の出来事が原因だ。
三か月前まで、晶は同じ自動車販売店で働く上司の前田と交際していたのだが、前田が結婚することになり、晶は前田と別れた。交際自体、セフレに近い関係だったので、その別れは晶にとって痛手ではなかったのだが、問題はその先だった。
ある日突然、ブロックしたはずの前田のラインからメッセージが届いたのだ。
『おかえり。今日の夕飯はコンビニの肉炒め弁当なんだね』
どうして自分にラインが届くのか、しかも帰宅のタイミング、コンビニで買ったものを知っているのか。途端、晶の背中はぞくりと震えた。
それからは毎日、そんなラインや無言の電話、メールが届いた。ブロックや拒否をしてもいつの間にか届くそれらは本当に寒気がした。勤務中、前田の視線が常にこちらを追いかけている感覚もあったし、帰宅の道で後ろに気配を感じたこともある。
ただただ、怖かった。そんな恐怖にさらされること一か月、晶は眠ると悪夢を見るようになり、やがて眠れなくなっていた。
前は姉と瓜二つだと言われた顔も、今鏡の中にあるそれは、随分やつれていた。それを見つめ、晶はため息を吐いた。
「おはようございます」
なんとか朝の支度をして出勤した晶は、先に来ていた社員にそう、声を掛けた。
今まで勤務していた店からは随分離れた、地方都市の小さな店だが、それなりに売り上げもあり、少ない人数ながらみんなで上手く廻しているところだった。
事前に体調を崩していることを知らせてあったためか、みな晶の体を気遣ってくれ、本当に調子が悪い時は休みもくれる。
だからこそ、少しでも動ける日はちゃんと仕事がしたかった。
「ああ、飯塚さん、おはようございます。今日も調子悪そうですね……眠れないんですか?」
晶より一つ年下だという男性社員が晶に笑顔を向ける。
「うん、まあ……でも、ちゃんと閉店までは働くから」
「無理しないでください。僕ら、事情は聞いてますから」
その言葉に晶は、ありがとう、と答え、自分の席に着いた。
結局、あの酷いストーカー行為は職場にバレてしまっていた。交際していた事実は知られなかったが、晶が前田を特別避けるようになったのは一緒に働いていれば分かってしまうことだったようで、事情を全て話した上での今回の異動だった。つまり、逃げてきたことをこちらの店舗の全員が周知しているし、逃げて行ったことを前の店舗の全員が分かっているということだ。
お陰で未だ、前田に自分の所在は知られずに働くことが出来ている。
それでも安心できずに眠れない自分は、よほど弱いのか、と晶は少し悔しい気持ちでその日の仕事を始めた。
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