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 その日の夜、ぐるぐる回る視界を頼りに歩いて、ようやくたどり着いた部屋のベッドに体を投げ出した晶は、ずっと襲い続ける頭痛と吐き気に目も開けられず呼吸だけを繰り返していた。  店を出るまでは平気だった。なのに帰宅ラッシュの電車に乗ってから頭痛がして、家に着くころにはどちらが上でどちらが下かもわからないほどの眩暈に襲われていた。 なんとか家には着いたけれど、このまま死ぬかも、なんて思ったその時、壁の向こうから小さな歌声が耳に優しく届いた。  隣の部屋から聞こえるのは、いつか流行った優しいバラード。引っ越したその日に話した隣の部屋の住人は、男子大学生で音楽を趣味でしていると言っていた。たしか橋本(はしもと)、とメールボックスに書かれていたか。掠れた声だけれど、その歌声は晶の耳からするりと入り、胸の奥で溶けて広がるような気がした。次第に頭痛も少しずつ和らいで、久々に何の不安も焦りもない、穏やかな気持ちが晶を満たしていった。普段聴く音楽とは違う、どこか子守歌のようなそれを聞いて、晶は数日ぶりの眠りに落ちていった。  何日ぶりだろう、薬にも頼らず、こんなに深く眠れたのは――翌朝、久々にしっかり眠りから覚めた晶は、驚くほど体が軽いことに気が付いた。いつもは食べられない朝食も食べることが出来て、本当に嬉しかった。 「……あの歌、かな……?」  眠りに落ちたきっかけは、あの歌声だった。決して上手くはないけれど、心地良く体に響いたあの声が、自分を眠りに誘ってくれた。不思議だけれどそうとしか思えなくて、晶は思わず壁に向かって、ありがとう、と頭を下げてしまった。
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