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1.
教室を出ると、登校時間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
初夏にしては涼しい風が開け放した窓から廊下に流れ、何とも心地いい。僕は欠伸混じりに伸びをして、目的地の無い散歩を始めた。
今はちょうど1時限目が始まったばかり。各クラスの授業風景を横目に見ながらの自由な朝は、やはり格別だ。
1年の教室のある東棟を抜け、西棟を一通りぐるりと回って昇降口から校庭へ出る。もう少し太陽が高くなれば、夏らしくジリジリと焼かれるだろうグラウンドを横断し、プールへ向かう。
確か、もう少しでプール授業が開始されると誰かに聞いた。既に水が張ってあるかもしれない。見た目にも涼しげで過ごしやすそうだし、ちょっと覗いていこう。
何と自由な高校生活。
僕が入学と同時に手に入れたこの“特権”があれば、退屈な授業の時はいくらでも遊び倒せる。
日ノ森高校の学内プールは校庭を挟んで校舎の向かいに位置し、横に部室棟が併設されている。プール授業が開始される前、しかも授業中である今はほぼ無人であるはず。
やがて見えてきたプールをぐるりと囲むフェンスに付いた大扉は開け放してあり、誰でも容易に入れそうだ。
「何やってる!授業はどうしたんだ」
「うわっ!」
不意に横から聞こえた怒号に身を竦めてしまったが、僕への言葉では無いようだった。
少し離れた部室棟の入口前で、体育教師の五條先生が2人の男子生徒の行く手を阻んでいるのが見える。どうやら、部室かどこかでのサボりを画策した不届き者を成敗しているらしい。
ご苦労様・・と密かに合掌して、そそくさとプールへ向かった。
冒頭にも語ったように、僕は泳ぐことができない。
とはいえ安全が確かめられ、尚且つしっかりと足のつく深さならば、肩まで浸かるくらいは吝かでは無い。
だがしかし、僕のソレは友人に言わせると『プールというより水風呂の嗜み方』らしかった。
確かに僕は鎖骨以上に水が迫れば眼が血走り、呼吸器官が水没する危険に晒されれば人目を憚らず救助を求めるだろう。だがプールを全く楽しめない程臆病者ではない。
プールサイドで眺めるくらいが良い距離感なだけだ。
飛び込み用に並んでいる段差の一つに腰掛け、キラキラ輝く水面を眺める。
恐らく水が張られてまだ一度も使われてはいないのだろう。不純物も少なく透き通っていて、なんとも涼やかだ。
ふと水面に何か・・・いや、誰かが映った気がした。
“誰か”という表現に躊躇を覚えたのは、あまりに小さく見えたからだ。
水面にゆらりゆらり、うっすら映ったそれを“誰か”と呼んでしまえば、空飛ぶ妖精か、落ちてくる小人か、もしくは“遥か上空から落ちてくる誰か”になってしまう。
反射的に空を見上げる。
僕の目に最初に映ったのは、日ノ森高校の夏用女子制服。陽の光を反射する真っ白なシャツに紺のスカート、風を受けてフワリと舞う漆黒のポニーテール。そして、まるでジェットコースターで浮かべるような、やんちゃな笑顔を湛えた女の子だった。
「ざっばーん!」
愉快そうな声色で響いた擬音に、僕は我にかえる。
「危なっ・・・」
不意に出た警告の言葉は間違ってはいないと思う。
一体どこから落ちてきたとか、思いっきりパンツを見てしまったとか、そういう前提状況は置いておいても、あんな高度からの飛び込みに耐え得る程このプールは深くない。
しかし、そんな僕の心配は全くの的外れだった。
彼女の飛び込んだ水面はスルリと彼女を飲み込んだだけで、少しの飛沫や波紋、水音すらも一切残していなかった。
彼女は水面を“すり抜けた”。恐らく水底すらも。
「こ・・・これって」
面食らって棒立ちした僕の目の前で、彼女はまるで何事もなかったように、スルスルと水面から顔を出し・・・そのままふわりと空中に浮いた。
『ん〜!』なんて言いながら伸びをしている。
この状況をどう捉えるか?それは人によるだろう。
個人の持ちうる常識と現状を擦り合わせ、妥協点を探る。しかし僕の場合は、他の大多数の人達よりも持っている常識の趣が違う。
なので比較的簡単に結論が出せた。2パターンだ。
その1、彼女は生き生きした幽霊
その2・・・こっちじゃないと良いなぁ。
とりあえずは、恐る恐る声を掛けてみる。
「・・ね、ねぇ」
「!?」
僕の声掛けに彼女はわかりやすくギョッとする。あぁ・・やはり。
彼女がおずおずと口を開く。
「・・見えてるの?」
「見え・・てるね」
彼女は少しの間黙り込み、何やら思考を巡らせた後に
「霊感のある人?」
「多分、無いんじゃないかな」
僕と彼女の間に沈黙が流れる。僕は静かに彼女の結論を待つ。
まず彼女の第一声で、2つあるパターンのうちどちらが正解か分かるだろう。頼むからハツラツとした幽霊であって欲しい。
「あなた・・・幽霊?」
あぁ・・・。
僕に約束された自由な高校生活は、僕だけのものではなくなってしまった。
その2。
僕達は、幽体離脱することができる。
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