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2.
幽体離脱に僕が興味を持ったのは、確か中学1年生の秋頃。
遅れを取り始めた勉学の息抜きか、膨らみつつあった思春期特有の万能感の発露か、今となっては判然としない。
しかし、気付けば僕は幽体離脱の訓練として夢日記をつけたり、毎晩瞑想をして床についたりしていた。
まぁ、そう簡単にうまくいくはずも無い。なんとなく惰性でその一連のルーティンは習慣化していたのだが、高校に入学して数週間後、唐突にその瞬間は訪れた。
英語の授業中、不意に襲われた睡魔に早々と白旗を揚げた僕は、腕を枕に居眠りを決め込んだ。
普段から授業態度がよろしくない自覚はあったので、割と堂々と寝ていたと思う。
授業の声も遠くなり、ヴォンヴォンと微かに響く耳鳴りをぼんやり聞いていると、『バリバリッ』と何かが剥がれるような音がした。
気付いた時には瞼の裏の闇は晴れていて、机に突っ伏し寝息を立てる僕を見下ろしていたのだった。
(おぉ、なんだこりゃ)
面食らって動揺してしまったが、一通り幽体離脱に関する知識を得ていた僕は、今起きている現象を理解するのも早かった。
(本当に出来た・・・。これが、幽体離脱か・・・)
中学時代に悪戦苦闘し、半ば諦めていた特殊体験はすんなり僕の体質となってくれたらしく、それからというもの好きになれない授業(主に英語)の時は、幽体散歩をするのが日課になる程使いこなせるようになっていった。
他の干渉の余地の無い世界は、不思議と居心地が良かった。自分だけのパラレルワールドを得たような気分になった。
この世界は、僕だけの領域だと。
「私以外に幽体離脱してる人に会えるなんて、思いもしなかったよ!」
目の前に浮遊しているポニーテールの女の子は、これでもかと目を輝かせている。
この変則的すぎる出会いに対する感想は、僕とはだいぶ違うらしい。
僕は、嬉しくない。断じて嬉しくない。
幽体の醍醐味は『誰にも干渉されないこと』その一点が最重要なのだ。
誰の目も気にすることなく、やりたいことをやりたいようにやる。いや、別に僕はやましい事などしていないけれど。
誰かのことを気にしなければならないというのは、僕にしたら相当の痛手だった。勘弁してもらいたい。
「キミの名前は?私は花って呼んでほしいな。本名じゃないけどね」
彼女・・・花さんが、僕の顔を覗き込んでくる。本名じゃないということは、彼女もそれなりにプライバシーは守りたいのだろうか?
「いや、えっと・・こんな状況想定外で、まだ混乱してるんだ」
ゴニョゴニョと返答しながら考える。僕も本名は伏せるべきか?いやしかし、お互い日ノ森高校の制服を着ているわけだし、顔が割れてちゃ意味が無いのでは?
混乱した頭で考えをまとめている僕に対して、彼女は依然、興味津々といった風な様子ではしゃいでいる。
僕が恨めしさ半分、気恥ずかしさ半分で固まっていると、不意に彼女の視線が上を向いた。さらに短く声を上げる。
「えぇ!?」
「え?」
彼女の視線の先、背後の部室棟の方へ振り向くと、何かが空を舞いながら僕等の頭上を飛び越えていく。白い色の四角い板の様に見える。なんだあれ?
「ノートPCだ!」
「ノートPC?」
ノートPC・・・パソコン?そんなものが、何故空を舞っている?
やがてそれは弧を描いて落下していき、勢いよくプールの中ほどに着水した。・・・え?壊れちゃうんじゃないか?
それから少し間をおいて、プールの出入り口付近から聞き覚えのある怒号が聞こえた。
「なんだ!何の音だ!」
先程生徒指導に当たっていた五條先生だ。ノートPCの立てた着水音を聞きつけたらしい。
プールサイドまで駆けてきて、ぽかんと口を開けて、プールに沈んだノートPCを眺めている。
「何故、こんな・・・」
立ち尽くす五條先生を横目に、花が意味も無く囁き声で話しかけてくる。
「なんか、凄いもの見ちゃったね・・・」
「というより、どういう状況なんだコレ・・・」
条件反射で言葉を返したその時、突如頭頂部に激痛が走る。
「痛っ!」
そしてグワグワと視界が揺らめき、意識は遠のいていく。幽体である体がグイッと引っ張られる様な感覚に襲われた。幽体時特有の目覚めの感覚だ。つまり僕が、教室にいる方の僕が覚醒しようとしている。
「ちょっ・・・うぁ!」
「鍛冶屋くん!?」
遠くなる意識の切れ目に、花の声が聞こえた。
(なんで僕の名前知ってるんだ?)
「やる気が無いなら帰りなさい!」
目覚めた僕に苛立ちのこもった声が降ってきた。声の主は英語担当の女性教師・・・何て先生だったっけ。
ツンケンした印象を受ける眼鏡の奥の目は、怒りで燃えている。
「いや・・・すいません」
僕の定型の謝罪を突っぱねるように、何某先生は大袈裟に踵を返して教卓に戻り、授業を再開する。
状況把握の為、周りを見回した。
授業も終盤という事もあり、僕と同じような白旗が数本立っているが、僕が見せしめに選ばれたのは常習性によるものだろう。
英語の時間は大抵、精神的に外出しているから。
意識をはっきりさせる為、軽く自分の頬を叩く。
頭の再起動が進むにつれ、いくつもの疑問が湧いてくる。
(・・いやいやいやいやいや、何ださっきの)
幽体状態で出会った女の子、花。唐突に起こったノートPC水没事件。嵐のように起こったイレギュラーな出来事を置き去りに叩き起こされる刹那、聞こえた僕の名を呼ぶ声。花は僕を知っている?
何で知ってる?そこが一番疑問であるし、一番空恐ろしい。
僕は彼女に見覚えが無かった。更には本名も伏せられてしまった。つまり一方的に情報を握られている訳だ。
「1-Aの鍛冶屋くんさぁ、幽体離脱出来るんだってぇ。一体何をやってるんだろうねぇ」
脳裏に女子生徒間で囁かれそうなヒソヒソ声が浮かんで、戦慄が走る。
いや、よくよく考えればそんなオカルトめいたゴシップなんて、誰に言ったところで相手にはされないだろうが。そうだとて気が気では無い。
僕の名を知っている。それならばどこかで接点があるはずだ。
高校入学から数ヶ月、残念ながら女子生徒との友人関係は特に無い。
同じ中学出身者自体、少し地元と距離のあるこの高校では数える程なので、日ノ森高校に於いて僕の名を知っている女の子は・・・。
(・・・同じクラスか?)
彼女“花”はまだ幽体離脱状態だと思われる。もう一度教室内を見回した。
先程同様、頭が前にうなだれていたり、頰杖をついて舟を漕いでいる者、僕の様に完全に寝入っている者、こうして見ると割と多い。何某先生に同情する。
しかしその全てが男子であるし、全く顔に見覚えが無い女子は、流石にクラスには居ない。
一体、花の正体は誰なんだ。
うなだれる様に頭を抱えた僕は、2発目のゲンコツを何某先生から頂戴する羽目になった。
僕達が偶然目撃した『ノートPC水没事件』は、昼休みになる頃には全校に知れ渡っている様だった。
僕がいつも昼食を共にしている近見 研介はパソコン部所属で、見当はついていたがやはり、パソコン部所有のノートPCが被害元だったらしい。
「全く、今うちの部は大騒ぎだよ。部が持ってる中で1台しか無い、貴重なMAC BOOKだったのにさぁ」
「ま・・・何?」
「お前、ホントそこら辺無知だよな〜」
ケラケラと笑う近見を小突きたい気持ちを抑える。
僕がある意味巻き込まれている事件の関係者が、目の前でカレーパンに齧り付いているのは僥倖だ。無駄にはしたくない。
「それで、どんな状況なんだ?」
「状況っつーか、惨状?今主に使ってたのは2年生の女子の先輩なんだけどさ、3年生全体への卒業祝いにアプリ制作してたらしくて、その全データおじゃんだよ。さっき部室に様子見に行ったけど、めちゃめちゃ泣いてて悲惨だった」
「アプリ?そんなの作れるもんなのか?」
「俺には無理。でも大江先輩なら出来るだろうなぁ。あの人やたらスキルあるし」
そう言いつつ、近見はクリームパンの袋を開ける。食い合わせの悪さは気にしないらしい。
スマートフォン用のアプリが作れる女子高生・・・。全く別次元の話に聞こえるが、そんな大層なものを作っていたのに全てが文字通り水の泡では、泣いてしまうのも無理はないだろう。
「大変だな・・・。誰の仕業か分からないのか?」
僕の問いに近見は肩を竦める。
「全然。そもそも部活中以外は部室に鍵閉まってるし、その鍵だって普段は顧問が持ってるからな。大体、何でPCを盗んで更にプールに投げ込むんだよ?嫌がらせの域超えてるだろ」
「それほど恨みを買ってたとか?」
「そんな先輩じゃねぇよ・・・そもそもそのアプリだって、3年にいるお姉さんに喜んでもらいたいって自主制作してたんだぜ?たしか“卒業アルバムアプリ”だったかな」
アプリ型の卒業アルバムだろうか。どんなものか想像もできないが、確かに破壊の矛先が向きそうには聞こえない。制作目的もプレゼント用ならば、ありがちな金銭やら著作やらのゴタゴタも起こりにくいだろう。
被害の状況は分かった。次に、僕が一番気になっていたことを聞いてみる。
「あとは・・・目撃者とか居ないわけ?」
「いないいない。1時限後の休み時間に五条がプールに沈んだPCを見つけたらしいんだけど、誰がどころか、いつやられたかも分かんねー」
近見の言葉に、『え?』と疑問の声を漏らしそうになったが、何とか堪えた。
何故、いつ起こったのか分からないのだろう?
五条先生もその場でノートPCが投げ込まれた時の水音を聞いていたはずだ。今日の朝、正確に言えば1時限中に”犯行“は行われた。時刻ははっきりしているはずなのに。
そういえば、発見したタイミングも休み時間までズレている。
何かおかしい。しかし、その事を指摘することは僕には出来ない。何故ならその時刻、僕は教室で居眠りをしている。
この突拍子も無いジレンマに陥ることを、僕は薄々予期していたのかもしれない。
ノートPCが部室棟の方から投げ込まれた様を、1番近くで目撃したのは僕と花だけだ。
その場に駆けつけただけの五条先生は、恐らく部室棟の何処かの部屋から投げ込まれただろうことは知らない筈だ。さてどうしたものか・・・と悩んでいたのだが、それどころか事実と反する発言までしてしまっている。
何が何だか分からないが、おかしい。しかしどうすることもできない。正に八方塞がり、五里霧中、四面楚歌、対岸の火事・・・。
「何ボケっとしてんだー?」
近見の、遠くから呼びかけるような声で我にかえる。
「・・いや、なんでもないよ」
「お前って常に眠そうだよなー」
近見に『うるせぇ』と軽口を返しながら、まだ半分も進んでいなかった弁当を掻き込む。
そもそも、僕が割って入る余地も義務も無いんじゃなかろうか。
常日頃から面倒事は避けて通ってきた。近見に言わせれば僕は“事なかれ主義者”らしい。
その棘のある呼び名には不服を申し立てるが、的は射ている。
どうしようも無いならば、遠くの火事に飛び込む必要は無いだろう。
どうしようも無いならば・・・。
昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り響く。
頭の何処かでぼんやり浮かぶ、『花ならあの後の事を知っているかも』という考えを、冷えた白米と一緒に飲み込んだ。
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