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翌日。 昨日とはうってかわって空は厚い雨雲に覆われ、激しく雨を落とし続けている。 それは夏特有の湿気に姿を変え、雨が降り込まぬ様締め切った教室の不快指数を上げ続けた。 3時限目、英語。冷房の解禁を懇願する生徒の声は、何某先生には届かなかった。 「冷房の使用は7月からです!」 今は6月半ばを折り返したばかり。地球温暖化に追い付けないでいる学校教育に吐き気がする。 受講ストライキの大義名分には十分だろう。だが実際に決行する気にはならなかった。 蒸し暑くて寝苦しい、それもある。しかしそれ以上に、また花と遭遇する事を危惧していた。 また鉢合わせすれば、否応無く昨日の事件の話になるだろう。 僕の勝手な第一印象だけれど、花の快活そうな笑顔や語り口は、あらゆる物事に積極的に関わろうとする典型的な“やってみようぜ体質”を匂わせていた。 何と楽しげなことか。勘弁してくれ。 何某先生の教鞭は徐々に熱を帯びる。神経質なまでに正確な並行さでもって黒板を埋めていくアルファベット。大袈裟に抑揚のついた発音で奏でられる異国の言葉。Hello アメリカ、アイムジャパニーズ・・・。 ヴォンヴォンと微かに混ざるノイズ。手足の感覚が意識の外へ霞んで消えていき、感じるのは呼吸のリズムと、体の中心にある何かが上昇してゆく浮遊感・・・。 安穏とした意識が顔を上げ、視界を覆った瞼の闇が拓ける。 「・・やっと寝たぁ!」 「うわっ」 幽体離脱直後、目の前5cm先にあったのは花のウキウキとした笑顔だった。 「いつまでも寝ないから待ちくたびれたよ、もー」 不服そうにため息を吐く花。その体は前の席の寝入ったクラスメートの背中から生えている。間違いなく幽体だ。 「待ちくたびれたって・・・いつからそこに居たんだよ!」 「え?朝のホームルームからだよ。君もすぐ出てくると思ってたのに、意外と真面目?」 どうやら僕は、朝から生き霊に取り憑かれていたらしい。誰か除霊してくれ。 「あのね・・プライバシーって知ってる?」 「君が言うかなーそれを」 正当な返しだ。ぐうの音も出ない。 悪意を持っていなくとも、幽体で好き勝手に徘徊していた僕に人の道理を説く権利は無いだろう。 しかし、知らぬ間に至近距離で観察されていたというのでは居心地が悪い。 「それよりさ、この前の“アレ”大変なことになってるじゃない?あんな場面を見ちゃうなんてびっくりだよね」 待ち望んでいたとでも言うように花が喋り始める。こちらとしても、また出会ってしまったからには色々話したいこともあるが、先ずは花を制止する。 「待った、取り敢えず場所変えよう。授業中の教室じゃ落ち着かないし、あと・・・クラスメートの体を女の子が突き抜けてるのは、怖い」 僕の指摘に当の花本人は『そう?』とでも言いたげに首を傾げている。 前の席の生徒が寝苦しそうに呻いているのは教室の暑さの所為か、それとも・・・。 僕の提案に同意してくれた花を引き連れ、東棟で唯一、人の出入りが殆ど無い資料室に入り込む。 ここは学校の古い備品やら開校当時からの記録や資料で満ちており、その全てが埃を被っている。 基本立ち入り禁止なので誰も訪れることは無いだろう。まぁ、来た所で関係無いんだけど。 「・・で。君は一体何者なんだ?」 唐突気味に質問する。“やってみようぜ体質”の人間は話の主導権を渡さない傾向がある。近見もそのタイプだからよく心得ている。 「え?そういう話するの?『ノートPC水没事件』のことじゃなくて?」 分かりやすくそっぽを向きながら誤魔化しにかかる花。漫画やアニメのように口笛を吹きだしそうな勢いだ。 この幽体少女は謎に満ちているが、謎を隠すのは上手くないのかもしれない。 間髪入れずに問いをぶつける。 「僕のこと知ってるよね?この前名前を呼んでた。鍛冶屋って」 「そ・・・そうだっけ?」 ギクリとでも聞こえてきそうな反応だった。口を滑らせたこと自体気付いていなかったらしい。 「クラスも知ってたじゃないか。君は誰だ?僕の方には見覚えが無いんだ」 「・・・だよね」 寂しそうに花が呟いて、僕は少し動揺してしまう。 僕が覚えていないだけで、本当は面識があるんだろうか? 改めて眼前の幽体少女を観察する。 肩ほどの長さだろう綺麗な髪を後ろで束ねた、活動的な印象の女の子。 それに反して、全く日焼けしていない白い肌が何だかちぐはぐで、不思議な雰囲気を醸し出している。 目鼻立ちもはっきりしていて、まぁ・・美人だ。仮に会ったことがあるならば忘れそうも無いんだけど・・・。 「もう少し仲良しになったら教えるよ。まだヒミツ!」 いたずらを仕掛けるような無邪気な笑顔。それで追及できなくなってしまう僕も中々分かりやすいだろうな。 「じゃあ、昨日の事なんだけど、あの後何があったんだ?五条先生はどんな対処をしてた?」 「対処?うーん・・・鍛冶屋くんが戻った後は特に何も無かったかなぁ。五条先生も慌てて出て行っちゃって」 「追い掛けなかったのか?」 「なんで?」 なんでって・・・まぁそうか。 唐突な出来事だったし、五条先生がその後偽りの報告をするとも思わなかったから、追い掛ける理由は無かった。 とりあえず僕は、近見から得た情報を花に話して聞かせた。 ふんふんと興味深げに相槌を打っていた花が、少し考えて口を開く。 「これってさ、私達がどうにかしなきゃって話じゃない?」 出た。これだ、僕が危惧していたのは。 「どうしようもないだろ。なんで五条先生が変な嘘ついたのかは気になるけど、犯人てわけでも無さそうだし」 「でもさ、その大江先輩?可哀想じゃない。それに色々気づいてるの私達だけだしさ!」 あぁくそ。勘弁してくれよ。 「それに私達、“探偵”するにはぴったりじゃない?潜入捜査とか情報収集も簡単だし!」 花の語りが熱を帯びてくる。こうなる事は分かっていたのに全部話してしまったのは何故だろう。 僕自身興味はあったのか、場を繋ぐ適当な話題がこれしか無かったからか。 ん?僕は花と話したがっているという事なんだろうか?先程花が言った『仲良くなったら』を無意識に目指してしまっているのかもしれない。なんで? 僕が少し考え込んでいるのを見て、共同捜査を検討していると勘違いしたのか、花がグイグイと迫ってくる。 「大江先輩の仇を取れるのは私達だけだよ!他の人には頼めないし、絶対できない!ね、お願い!」 仇って。大江先輩は死んでいないぞ。 んん・・と唸りながら僕は考え込んでしまう。だがもう分かっている。 僕は何故だか、花のペースに呑まれやすいようだ。そして多分、満更でもないとすら思っている。 その時僕が思い出していたのは、いつかの夏、太陽に焼かれながら立ちすくんでいた水門の上からの光景だ。 真下に流れる濁流は、底も見えず恐ろしい。それでも、心が高揚して飛び込まずにはいられなかった夏の日。 あの頃感じていた夏の匂いを、僕はまた吸い込みたがっている。 「わかった。やるよ」 「やった!」 僕の同意を取り付けてからの花は、持ち前の行動力を発揮しているらしかった。 2人で捜査するに当たり、今から何時間も居眠る訳にもいかないので放課後の夜にプールで再集合、ということになったのだが、英語の授業に戻る僕とは違い、花は幽体のまま部室棟へ飛んで行ってしまった。 アイツも授業中ではないのか?とも思ったが、先程『朝から居た』と言っていたし今日は休んでいるのかも知れない。 その後、そのまま僕は1日の授業をボンヤリと消化していった。 時折、何処からか花に見られている気がして落ち着かなかった。 終業のチャイムが鳴り、帰宅し、飯を食い、シャワーを浴びて早々にベッドに潜り込む。 褒められたことでは無いけれど、僕は人一倍睡眠をとる技術がある。 場所も厭わず5分もあれば寝付けるし、1日10時間前後は余裕で寝られる。本当に褒められたことじゃないな。 約束の時刻は20時。さっさと寝てプールまで飛んで行こう。 日ノ森高校は中心街から外れた場所に位置し、周りも閑静な住宅街なので夜の闇は意外と深い。 闇夜に点々と並ぶ街灯の灯りを縫うように飛ぶ。 幽体で夜空を飛ぶのは楽しいが、僕は普段、夜は普通に寝ていることが多い。 夜は大して見て回るものも無いし、正直幽体離脱で睡眠欲は満たされない。 体は休めているのかも知れないけれど、脳は逆に疲労している感すらあるのだ。 これからどんな捜査をするにせよ、脳睡眠の時間は削られそうだ。 やがて見えてきたプールの更衣室前に着地し、辺りを見渡す。 夜の学校、しかもプールなんて幽体でも入った事は無い。さぞ不気味だろうと構えていたのだが、遠くに聞こえる街の喧騒もフィルターが掛かったようにぼやけて聞こえる程度で、僅かな照明や月明かりに照らされた水面がキラキラと静かに揺れ、神秘的な雰囲気を醸し出している。 花は、それで敢えて集合時刻を日没後に設定したんだろうか。 いや、それは理由になってないな。 頭を軽く振って妙な考察を自分で否定する。というより花はどこだよ。 いくら周りを見回しても、幽体どころか火の玉ひとつ見当たらない。 「おぉ〜い・・・」 何処からか、不気味さを演出した花の低い声が聞こえる。早く出てこい。 「コッチだよ〜・・おいでよ〜」 返事を返さなかったらどうするつもりだろう? 僕は腕を組んで、遠くの街灯りをぼんやり眺める。 「カジヤくぅーん・・・あの・・鍛冶屋さーん?」 そういえば、『夜景は残業で出来ている』というロマンチックな台詞を聞いたことがある。僕もいつかあの光の一つになるのかな・・・。やだなぁ。 「無視は止めてよ!遣る瀬ないよ!」 甲高い悲鳴を上げながら、花が水面から顔を出す。水は透明なので、さっきから丸見えだった。 「まさかと思うが、それがしたくて夜集合にしたんじゃないよな?」 「・・そんな訳無いじゃない」 花の表情を見るに図星らしい。なんとしょうもない。 言い訳がましく花が言葉を続ける。 「私達が見える人って、いないのかも知れないんだよね。霊感があるって公言してる人、クラスにいたりするじゃない?でもだーれも気付かないの。幽霊じゃないからかな?」 「いやそれは・・」 霊感があるという人の何パーセントが事実を言っているかは知らないけれど、こと高校生に絞れば、たかが知れていると思う。個人的意見だけれど。 「幽霊が幽霊を驚かすってのは、シュール過ぎやしないか?」 「そうかもね」 ケラケラと笑う花。楽しそうで何よりだが、さっさと目的の捜査とやらを進めたい。 「それで?何をどう調べるんだ?」 行動を促す僕の言葉に花も張り切った表情になる。 「えっとね、まずは犯人をある程度絞り込んだほうがいいと思うの。犯行時刻は授業中だったしそんなには多くないと思うのよね」 「そうだな・・・学校の欠席者やサボりの類をしてた奴」 「あとは先生とか外部の侵入者?」 「いや、ゼロでは無いけどその可能性は低いな。あの時、部室棟前で五条先生が見張ってた。実際サボりの生徒が見つかってたしな」 そこまで言って、それでは生徒も入れないと気付いた。これじゃあ五条先生の目を盗んで侵入さえできれば外部犯の目も出てくる。 しかし、花が疑問に思ったことは別だった。 「なんで五条先生、部室棟なんか見張ってたのかな?」 「なんでって・・サボってる奴がいないか見てたんじゃないか?部室なんて1番ありがちで、快適そうだからな」 こういった視点は落第者特有のものかも知れない。花がどんな生徒かは知らないが、僕よりは幾分かマシなんだろう。 「でもさ、1時限目から見回ったりするものなの?そんなに早々とサボる人なら、遅刻とか欠席する人の方が多そうじゃない?」 言われてみると、そんな気もしてくる。 一概には言えないのはもちろんだが、校舎から離れた部室棟を1時限目から決め打ちしたかのように見張っているというのも、何だかおかしい。 「でもそうなると、正に1時限目から部室棟に侵入しようとしたあの二人組もなんだか怪しいよな。あの後別の場所から入ってる可能性もあるかも」 「じゃあ、とりあえずの容疑者は五条先生と謎のサボリ魔2人だね!」 とりあえずという言葉は気になるが、大した手がかりもない中で目星を付けるなら・・・とりあえずその3人かな。 「じゃあ次!“現場検証”」 そう言いつつ花が指差したのは部室棟の3階部分。 花が身を屈めて力を溜め、一気に飛び上がる。そのフォームはまるで幅跳びのようだが、花の体は重力を無視してぐんぐん上昇する。 とはいえ、その一連の予備動作には何の意味も無い。 僕達はあらゆる決まり事、慣性の法則やらエネルギー保存の法則やらマーフィーの法則やら、とにかく小難しい理屈に縛られる事は無いからだ。『空飛びてぇ』で事足りる。 花に追随して宙を飛ぶ。やがて花は3階にある一つの部屋にするりと入り込み、僕も続く。 その部屋は大体10畳ほどの広さで、4つずつ横並びになった机の列が2列あり、どの机にも一つずつ大小様々なPCが乗せられていた。 壁側に置かれた本棚に並んでいるのも、プログラミングがどうのという専門性が香ってくる本ばかり。典型的なパソコン部室だ。 その机の一つ、先ほど僕等が通り抜けてきたプール側の窓のすぐ手前にある席には、ボールペンなどが刺さっている可愛らしい犬のイラスト入りのペンスタンドや、数冊の専門書が置かれている。 しかし机の中心はポッカリとスペースが空いており、主役を失った充電用コードやマウスがひとまとめにされていた。おそらくここに、例の被害にあったノートPCが置かれていたのだろう。 「おそらくここが犯行現場だと思われます」 部屋の真ん中で得意げに両手を広げる花。昼間のうちにパソコン部室を見つけておいたのだろう。 「確かに動線的には、プールに投げ込める位置にあるな。でもこの部屋から投げ込まれたとは限らないんじゃないか?」 花の調査結果に異議を唱えてみる。それっぽいことを言ってみただけで、何か意味があるわけではないが。 「えっ、でもさ・・・他の部屋、例えば隣の部室に持って行ってから投げる意味もないじゃない?大体だけど、あの時飛んできた方角もここらへんだったしさ!・・たぶん」 まぁ、そうだよね。 出鼻を挫かれて慌てふためく花を見ていると、ほんの少し申し訳なくなってきた。 少し真面目に考えてみよう。 「こうして考えてみると、かなり短絡的な行為だよな。パソコンのあった位置からそのまま投げ捨ててる。目的がパソコンの破壊なのかデータの破壊なのか分からないけど、衝動的な行動だったのかもな」 「そーだねぇ・・。パソコンを壊したいならもっと目立たない場所でこっそりした方がいいだろうし、データなら消しちゃえばいいだけだもんね」 花の言葉でふと気付く。 そうだ。犯人の目的がPCの破壊もしくはデータの破壊だとすれば、可能性が高いのは後者だ。 もしPC自体の破壊が目的なら、十中八九大江先輩への怨恨による嫌がらせだろう。しかし、破壊されたノートPCは部の所有物だし、大江先輩が最もショックを受けたのは制作途中の『卒業アルバムアプリ』のデータを失ったことだ。 つまり犯人の目的が何かの復讐だろうとデータの破壊だろうと、PCを破壊する意味は無い。 ならば何故破壊したか? 「犯人はパソコンに疎い。もしくはパソコンにロックが掛かっていて、焦ってパソコンを投げ捨てるような人物か」 「おぉ、探偵ぽい。今の」 花のつい出てしまったという感嘆の言葉を聞いて、僕は小っ恥ずかしさに襲われる。 こういうのは柄じゃない。 「いいからお前も知恵出せよ。例の“とりあえず容疑者”の中で、どいつが怪しい?」 僕の投げやりな謎かけに、花はわかりやすく困惑する。 「そんなこと言われてもなぁ・・・。サボリ魔さん2人は全然検討つかないし・・あ!五条先生は機械音痴そう!」 「その心は?」 「ガラケー使ってたから!」 なるほど。 五条先生は確か30代中盤くらいだった気がする。その年齢でガラケーユーザーというのは希少だ。 PCに疎い可能性も無くは無いだろうが・・。 「根拠にするには弱いな」 「えー・・・」 そもそも僕個人としては、五条先生が犯人とはあまり考えていない。 別段確たる根拠や理論武装がある訳ではないけれど、水没したノートPCを見下ろす五条先生はまるで、返却された期末試験の答案に度肝を抜かれた僕のように放心していた。 あの場にいたのは僕等だけだし、演技という事は無いだろう。 「それなら今度は職員室行ってみよう。デスクにパソコンが無けりゃ、多少は・・」 そこまで言ったところで、花の背後、廊下に出る扉辺りに何かが見えた気がした。 「どうしたの?」 唐突に言葉を切った僕を訝しんで、花が頭を傾け覗き込む仕草をする。 その小さな動作で、花で隠れて見えていなかった、扉にはまったガラス窓を視界に捉えた。 そこには手があった。 何者かの手がガラスにベタリと、廊下側から張り付いている。 「ひっ・・」 「ひ?」 思わず口から漏れた音を、花が疑問符付きで復唱する。 「花、こっち」 言いつつ花の腕を掴み、大江先輩の机の陰に隠れる。 あ、幽体同士で触れるらしい。 「な、何なの何なの?」 「いいから黙れ!」 人差し指を口にやり花に黙るよう促した後、その人差し指を扉に向ける。 その先にあった何かしらの手は、いまや上半身まで扉を突き抜けこちらに迫ってきている。 その何かは全身真っ黒のようで、夜の部室の暗闇の中にありながら存在感のある、塗り潰されたような深い黒だった。 それはやがて足の先までパソコン部室に侵入を果たし、のそりのそりとこちらに迫ってくる。 正体不明の闖入者を目の当たりにした花が、狼狽えた様子で縋り付いてくる。 (何アレ!?何アレ!?) (知るか!お前こそ今まで見た事ないのか?あーゆうの!) (無いよ!幽霊?幽霊なの??) (知るか!) 声を抑えて言い合う僕達に気づいているのかいないのか、視線の読みようもない仄暗い何かは、ゆったりとこちらに近づいてくる。 僕等自身、幽体状態なので逃げようと思えば難しくないはずだ。 しかし、身体的制限が無いはずの脚は微動だに出来ず、遠くの寝床に置いてきた心臓がバクバクと脈打って、全身に鼓動を響かせている。 腕にしがみつく花からすら、鼓動が伝わってきそうだ。 細心の注意を払って、花に囁く。 (とにかく、静かに・・・) (・・うん) やがてその黒い何かは、大江先輩の机の前で立ち止まった。 目と鼻の先にある筈なのに、その輪郭はハッキリと目視できず、質感や立体感も感じない。 只々深く濃い闇が人の形を成している。長く覗き込めば吸い込まれてしまうのではないかという、根拠も無い恐れで目を伏せる他なかった。 数秒、僕達の体感では数十分にも感じる間、その闇は佇んでいた。 だが突然、拍子抜けするほどあっさりと、紫煙が宙に溶けるようにその闇は掻き消えた。 そこには何の余韻も残らず、ただ夜闇に満ちているだけのパソコン部室。 遠くで響くサイレンの音が、微かに耳に届く。 それでも僕達は暫く動けずにいた。やがて恐怖も戸惑いも薄らいだ頃、隣の花が間の抜けたトーンで呟いた。 「さっき、花って呼んでくれたね」 「・・・」 だからどうした。
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