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4.
大音量を売りにした目覚まし時計が3度目の叫びを上げて、ようやく僕は重たい身体を起こした。
時刻は7時50分。始業の時間は8時30分。
登校には最短でも片道30分は掛かるので、僕に残された時間はそう多くない。
それでも、どうにも焦る気持ちにはなれなかった。
昨晩の出来事を枕元のノートに書き入れる。中学時代から書き溜めている夢日記だ。
無論、高校入学を機にそれは夢日記、時々幽体日記になったのだが、今日の日記は両方になる。しかもかなりの行数を要しそうでうんざりした。
例の未知との遭遇後、体に帰り着いたのは何時頃だったろうか。
身体的には10時間近く眠りこけていたことになろうが、体は怠く精神は疲弊して瞼は重い。
それでもどうにかベッドの誘惑から這い出して登校準備を始める。
花は昨日の出来事をどう考えているだろう。正直僕は、これ以上下手に嗅ぎ回りたくない。
あの黒い影、正体が何にしろ僕の許容範囲を軽々と超えていったのは確かで、自分がどの程度危険な状態だったのかも判断できない。
全く未知の世界に足を突っ込んでしまった。登校したら即座に“離脱”して、花に探偵役辞退を申し出よう。
やってみようぜを是とする花でも、流石にあんなものに関わる気にはならないはずだ。
じっとりと汗ばんだパジャマ代わりのTシャツを脱ぎ捨て、真っ新なTシャツに袖を通す。
ハンガーに掛かった制服のカッターシャツを大袈裟に羽織って、僕は部屋を出た。
愛用の自転車に跨ったのは8時10分だった。もうどうやっても始業には間に合わないだろう。
馴染みの商店街を悠々と走り抜ける。
開店準備に精を出す街並みを眺めていると、妙な背徳感に襲われた。
大人達が口を揃えて昔を懐かしみ、若人達に小言を言いたくなるのは、僕のようなだらけた学生がいるからだろう。申し訳ない。
商店街を抜けたあたりで、少し先を走る自転車が目に入った。
怠慢な学生その2の背中だった。
「おそよう、近見」
「おぉ、おそよう鍛冶屋」
自転車で並走しながら挨拶を交わす。近見も近見で急いだ素振り一つ無い。
欠伸混じりに近見が問いかけてくる。
「昨日はずいぶんすぐに帰ってたな。なんか用があったのか?」
「あぁ、大事な野暮用があってね」
「はは、妙に疲れてんな。疲れるほど何かするなんてらしくない」
僕の言葉に混じるのが欠伸でなく溜息なのを見て取り、近見はおどける。
「お前は恋愛がどうのなんて柄じゃないから、面倒ごとでもあったのか?いや、それも柄じゃないか」
「うるせ。そっちこそどうなんだよ?パソコン部は」
近見は『それなぁ』としみじみ宙を仰ぎながら溜息を吐く。前を見ろ。
「大江先輩、あれから休んでるんだよ。元々繊細な人だったからなぁ、他の先輩に聞いた話だと、体調崩しちまったんだと」
「大変じゃないか」
「まぁ軽い風邪らしいんだけどさ。心配だよ」
しおらしい近見を初めて見た。恋愛云々はこいつの事だったか。
のらりくらりと2人で自転車を漕いで行き、やがて閑静な住宅街に入っていく。この時間では出勤ラッシュもとうに過ぎ、車も殆ど走っていない。
やがて見えてきた校門前の街路樹の辺りに、2人の女子生徒がいるのが見えた。
一人はしゃがみ込み、もう一人は心配そうに覗き込んでいる。
「大江先輩じゃないスか!」
近見が素っ頓狂な声を上げる。
視線の先にはしゃがみ込んでいる女子。背中に少し掛かるほどの長さの髪はサラサラで、頭の後ろには可愛らしい青のバレッタをつけている。
まさしく近見が好意を抱きそうな、凛とした雰囲気の先輩だ。
しかし大江先輩は気分が悪そうに俯いてしまっていて、そばに立っている方の女子が代わりに返答する。
こちらの女子はショートの黒髪が印象的で、大人びた雰囲気だ。
「あなたは?」
「パソコン部の後輩の近見です。どうしたんですか?」
「登校途中で妹の体調が悪くなっちゃって・・・私、3年の姉なの。先生呼んできてくれない?」
「分かりました!」
すぐさま自転車を走らせそうな近見を引き止める。
「待て待て!・・・先輩、すぐそこなんで保健室までお連れしますよ。だいぶ気温が上がってきてますから、室内で休んだほうがいい」
「それもそうね・・・ありがとう」
僕の提案を聞いて、お姉さんの方の大江先輩が頷く。近見に顎で促してしゃがみ込んだ先輩を両側から支える。
先輩の頭越しに近見を見ると、気が急いて僕に遅れをとったと感じたのか、何とも言えない苦い表情で見つめてくる。なんだよ。
しかし、大江先輩(妹)の『ありがとね、近見くん』という呟きを聞いて頬を赤くしているから問題は無さそうだ。
先輩を支えながら僕達は保健室を目指す。
我が校の保健室は西棟1階の1・2年生用昇降口のすぐ側にある為、対して距離も無いのは助かった。
足元も覚束ない先輩の、女子の先輩の身体を支えつつ歩くのは、予想した以上に至難の業だったし気も使う。
保健室前に辿り着く頃には大粒の汗が額に浮かんでいた。
保健室のドアを開けると心地よい冷房の風が頬を撫でていき、汗が引いていくのを感じる。
「失礼します、先生いませんか?」
保健室内を見回す。左の壁沿いにはカーテンレールで3つに仕切られた休息用のベッド。窓際のベッドはカーテンが閉められ埋まってしまっているようだが、幸い2つは空いている。
ベッドの列から間をおいて窓際に置かれた机には、色とりどりの花が植えられた小振の鉢が並び、右側には茶色の3人掛けカウチが置かれていた。
なんの変哲も無い保健室。しかし一際目を引くのは、先ほどのカウチにデンとうつ伏せに横たわり、微かな寝息を立てる白衣の女性だった。
「おいおい、寝ちゃってんじゃねぇかよ」
近見が呆れた様子で嘆く。僕や近見に呆れられるのでは頼っていいものか迷うところだ。
大江先輩を一旦近見に任せ、養護教諭であるはずの女性に声を掛ける。
「先生?病人ですよ、起きてください」
「・・へ、あぁ・・ごめんごめん」
割とすんなりと起きてくれて助かった。先生は謝罪の言葉を呟きつつ、目元を人差し指で擦りながらカウチから上体を起こした。
不意に僕が上から見下ろす形で先生と目が合う。
白衣に映える漆黒の長髪にはっきりとした目鼻立ち。肌は透き通るように真っ白で、いつか見たような幼いハニカミにはならないだろうが、最近見慣れている面影は見て取れた。
花に似ている。
それこそあと数年経ち、彼女が社会の中で経験値と落ち着きを身に付けたなら、こんな大人になるだろう。
(は、花?)
声には出なかったが、姿勢は完全に静止してしまっていた。
そんな僕にやや戸惑いつつ、先生は立ち上がる。
胸元の名札が目に入った。『白山』とある。
「すっかり寝ちゃってたわぁ、起こしてもらっちゃってごめんね」
白山先生は僕の肩をぽんぽんと叩きつつ、大江先輩の方へ軽い足取りで駆け寄る。
呆然と見送る僕は、依然固まったままだ。
「花じゃ・・・無いのか?」
「花ってなんだ?」
いつの間にやら隣にいた近見に不意打ちを食らう。今度は声に出ていたか。
「いやー・・・あの鉢植えの花、綺麗だな」
「なんだお前気持ち悪い」
悍ましいモノを見るように僕から後ずさる近見。それを捨て置いて大江先輩の方を見ると、白山先生に手慣れた動作でベッドに誘導されていた。
それからしばし、体温測定等の一連の初期診断を遠目に眺めつつ、頭の中でひたすら自問自答していた。
(花じゃないとしたら、他人の空似か?・・にしては面影がありすぎるような・・いや、そもそもどう見たって高校生じゃない。幽体の状態を操作できるのか?若返った姿にもなれるって何かの本で読んだ気がするが、あれはなんて本だっけか・・・)
直ぐには整理出来そうも無いし、とりあえずは今度、花にカマをかけてみようか。素直に訊いた所で、はぐらかすに決まってる。
やがて白山先生と大江先輩(姉)の会話が聞こえてきた。
「熱もあるみたいだし、帰宅して休んでいたほうが良さそうね。親御さんは迎えに来れそう?」
白山先生の問いに、スマートフォンを胸に抱きつつお姉さんが答える。
「まだ連絡が取れていないんです。パートで仕事中なんだと思います」
「そう・・。連絡が来るまではここでゆっくりさせておきましょ。あなたとお友達は授業に戻ったほうがいいわね。色々ありがとう」
白山先生がこちらへ目配せする。大人びてはいるが、その仕草も含めて花の影が重なる。
さっき眠りこけていたのだって、幽体離脱してそこいらを漂ってたんじゃないか?
僕が勝手に疑心暗鬼の渦に呑まれていたその時、室内にオルゴール音が流れる。
この曲は確か、僕等が小学校低学年くらいの頃流行った、何とかってロックバンドの代表曲だったか。
「あ!親からです!」
お姉さんが声を上げる。どうやら先程から握りしめていたスマートフォンの着信音だったらしい。渋い選曲だ。
通話に出たお姉さんが通話先の母親に経緯を説明し、やがてホッとした様子でその通話を切った。
「今から車で迎えに来れるそうです」
「おぉ!良かった」
隣の近見が短く歓声を上げる。分かりやすい奴だ。
お姉さんが妹さんの枕元に寄り添い、頭を撫でる。
「もうすぐ母さんが迎えに来るから、もう無理して登校するんじゃないわよ。しっかり治さなきゃ」
「そうだね・・・ごめんなさい。でもお姉ちゃん」
そう呟きつつ、大江先輩は枕元のカバンを開け、自分のスマートフォンを取り出す。
「これを帯山先生のとこに持ってって。卒業アルバムアプリの仮テストで入れた、試作段階のアプリが入ってるの。そこから拾えるデータがあるかもしれないって」
「そう・・・」
スマートフォンを受け取りつつ、お姉さんは辛そうに頷いた。
「お願いだから、安静にしててね」
「はぁい」
大江先輩は布団をかぶり直して、ほんの少し出した指先でヒラヒラと手を振る。
背後からコホン、と若干わざとらしい咳が聞こえた。
白山先生が入口付近で微笑んでいる。
「はい、じゃあ後はゆっくり休ませてあげましょ。授業に戻って、寄り道しちゃ駄目よ?」
その含みのある笑顔は、またもうひと眠りしたいと言いたげに見えた。
見送られるように、僕等3人は保健室を後にした。
「二人とも、本当にありがとう。凄く助かった」
深々と頭を下げる大江先輩(姉)に、近見が慌てて言葉を返す。
「いやいや!大したことしてないっスから。ホントに」
そもそも僕達は遅刻している分際で、近見は好意を寄せる先輩の窮地だ。何をおいても手助けするだろう。
僕としても、恥ずかしながら遅刻の言い訳にさせてもらうのでWIN×WIN。
・・・そのつもりだったのだが。
先輩の背中を見送って、近見が伸びをする。もうすぐ1時限が終わる頃合いだ。
「それじゃあ、遅ればせながら出席しますかね」
「いや近見。僕は帰らにゃならなくなった」
そう言い残し、昇降口に踵を返す。
朝から不意に訪れたこの出会いのお陰で、いやそのせいで、色々と確かめる事ができてしまった。
しかもあまり良い予感がしない。
この直感が間違っているならそれで良い、それを確かめてスッキリしたいだけだ。
足早に歩く僕の背後から近見の声が追いかけてくる。
「何かビシッと決めた所悪いんだが、自転車が置きっぱなしだから付いて行くぞ」
そうか。
勝手にしろ。
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