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5.

その日は結局、丸一日学校をサボってしまった。 その為、花に探偵役辞退の旨は伝えられていない。 厳密に言えば多少やる気を取り戻してもいたのだが、1日を終え床につく頃にはそのやる気も萎んでしまっていた。 時刻は22時を過ぎている。ベッドに横になってからもう30分は経っただろうか。 頭の中に取り留めの無い考えが浮かび、沈んでいく。 あらゆる面倒事には関わらず、ただ日がな一日、時が過ぎるのを待つようなそんな毎日を送ってきた。 それがここ数日はどうだ。 幽体である花に遭遇し、妙な事件を目撃し、花に言われるまま野次馬根性丸出しで嗅ぎ回った挙句、正体不明の怪奇現象に晒された。 この予想外の毎日は、僕の人生における指針を乱しに乱している。 でなければ、無意味な好奇心で今日一日を潰したりもせずに済んだだろう。 この何とも言えぬ、苦い後味を味わわずに済んだ。 このまま寝てしまおう。 そして全て忘れてしまおう。 夢日記なんて付けるから、半端に夢を忘れられなくなる。 夢から醒めた時の虚しさも、忘れられなければ毒になるのだ。 ・・・。 耳鳴りが微かに響いている。 現実と夢の間で微睡んで、疑念や雑念が解けて消えていく。 フラッシュバックのように目の前で明滅するのは過去の記憶。 泥や砂利で淀んだ水が視界を覆い、微かに見える水面の光が妙に綺麗に思えた。 それは遥か上にあって手が届かない。誰かが引っ張り上げてくれなければ、僕はあそこまで昇れないだろう。 (・・今日も花に会えなかった・・) 気付けば僕は、幽体となって空に浮いていた。 一瞬、これが夢なのか幽体離脱なのか分からなくなった。 右手を顔の前で開き、閉じる。 何度かそれを繰り返し、次に辺りを見回す。 ちょうど真下に見覚えのある反射光が見えた。日ノ森高校の学内プールだ。 「あぁ・・くそ」 誰にともなく悪態を吐く。どうやら幽体離脱らしい。 渋々ながら高度を落とし、いつかのようにプールサイドに着地した。 明後日の方向に呼びかける。 「どうせいるんだろ!花!」 「どうせって何よ、感じ悪いなぁ」 何処からかフワリと花が飛んできた。顔には戸惑いの色が見えるが、もう騙されるか。 「どうやって呼び出したか知らないが、僕はもう探偵役は御免だぞ」 「呼び出した?何言ってんの?」 白々しい。コイツがどれ程幽体離脱を使いこなし、いくつのトンデモ技術を持っているか知らないが、これ以上振り回されはしない。 「花、もう嘘はやめてくれ」 「何よいきなり!なんで怒ってるのかわかんないってば」 花の顔に、戸惑いとは別に苛立ちが浮かぶ。 そんな花の反応にも辟易する程、僕は怒りに満ちていた。 依然として非難の姿勢を崩さず、冷たい視線を向ける僕に花は声を大にする。 「ちょっと、いい加減にしてよ!」 「小6の夏、覚えているか」 花の声に被せるように問いかけた。いや、問いでは無く、突き付けたのだ。 僕は思い出したと。 「・・・」 花の沈黙を肯定と受け取って、言葉を続ける。 「それよりももっと昔、物心がついた頃でもいいかもしれないな。あの白い家を覚えているか」 尚も花は黙り続けている。一文字に口を結んだままこちらを見つめているが、真意は読み取れない。 「お前は言ったな?最初にこのプールで会った時に『幽体離脱してる人に会えるなんて思いもしなかった』と。それがまず嘘だ」 今思い返しても、何故あんな嘘を吐く必要があったのか理解出来ない。 いつの間にか握りしめていた拳が微かに痛んだ気がした。でもそれは錯覚だろう。 今の僕達2人には、神経も血も通ってはいないんだから。 「僕達はとっくに会っていた、それも大昔から。僕達はある意味で幼馴染も同然だっただろう」 いつの間にやら花は俯いていて、前髪に隠れて目が見えない。 いつもキラキラさせている眼差しに僕が影を落とした。罪悪感がザワザワと湧き、僕の心臓を撫でる。 朝。白山先生に会い、そこで花の面影を見た僕はすぐに家へとトンボ帰りし、白山先生について調べた。とは言っても職員室や保健室で幽体の状態で調べられる範囲だが。 保健室の机には写真が飾られていた。 写っているのは2人で、おそらくは姉妹。 真っ白なベッドの上で微笑む7歳程の少女と、ベッド脇の丸椅子に腰掛けてピースしている若き白山先生。病院か何かの病室らしい。 日ノ森高校の制服を着た高校時代の白山先生は、びっくりするほど花にそっくりだった。 しかし、それよりも僕の目を引いたのは少女の方だった。 幼い容姿には不釣り合いな大きな眼鏡を掛け、柔らかく、そしてどこか儚げな微笑を浮かべている女の子。 見憶えは無い。それでも彼女の笑顔を見た瞬間、何かがカチリと音を立て、僕の記憶の中にある開かずの扉の存在を悟らせた。 「中学時代から、僕は夢日記を付けている。もう何冊もだ」 過去の夢日記を開くのは、どうにも気が進まない行為だった。 ベッド下の段ボールに詰められたそれらは、過去の僕の潜在的な悩みを内包している。 脈絡や突拍子も無い代わりに、その文面には何の建前も働いていない。僕のリアルが剥き出しで綴られているのだ。 けれど、忘れてしまった何かを思い出す鍵は、きっとその中にあると思った。 僕は今日初めて、全ての段ボールを開いた。 「付け始めた頃は夢をなかなか覚えていられなくて、ちゃんとした文章にすらなってなかった。それでも、毎回一文だけは入ってたんだ。同じ一文が」 それも、やがて忘れていってしまったけれど。 『今日も凛花に会えなかった』 その名を僕が呼んだ時、花が顔を上げ、瞳がまた見えた。 キラキラと、涙で潤んだ眼差しが僕に向けられる。 「なんで教えてくれなかったんだ?僕とお前は、あの夏の事故まで一緒に過ごしてきたんだろ?なんで僕はあの夏に全て忘れてしまったんだ?なんで思い出す手助けもしてくれないんだよ」 小6の夏、生まれて初めて死を間近に感じた日。一度離れた魂だか幽体だかが僕の体に運良く戻った瞬間、僕は何かを失った事を悟った。 それは確かに僕の人生の一部で、大きな割合を占めた大切なものだった筈なのに、何を失ったかも僕は解らなくなっていた。 拠り所のない喪失感はいつしか痛みを伴わなくなり、夏の先に続く毎日、その全てに意味を感じなくなっていった。 その毎日に見る夢には、広々とした芝生も、心惹かれるものに溢れた家も、幼い時を夢の中で共有した親友も居なかったんだから。 「僕達は、親友だったんじゃないのか」 「・・・どうしろって言うのよ」 ポツリと、花が呟いた。 哀しみを帯びた響きだった。 「キミは忘れちゃってたからいいんだろうけどさ、私はずっと覚えてたんだよ?ずっとあの白い家で待ってたんだよ」 花の声は細く、震えていた。 僕は何も言えなくなっていた。 「ちっちゃな頃から一緒に遊んだ部屋でさ、私達2人で作った物に囲まれて待ってたんだよ。鍛冶屋くんが作った落書き部屋とか、私が作ったお庭とか・・・。何にも変わってないからね。あの頃のまんまだからね」 花の言葉が、氷を溶かすように僕の記憶を蘇らせていくのを感じた。 2人で共有していた夢の空間。そこでは、想像したもの全てが形になった。 僕が初めに、海外の番組か何かで観た立派な白い洋風の家を作った。 人見知りしてうまく喋れずにいた凛花と、仲良く遊べる場所になるようにと。 そうしたら凛花はそれに合うように可愛らしい庭を作ってくれた。 2人で夢を見るたびに、部屋を一つ作っていった。 オモチャで溢れた部屋や、浅いプールと滑り台の部屋。入ればフワリと浮ける宇宙の部屋。お化け屋敷を作った時には凛花を怒らせてしまったっけ。 毎晩僕達は夢の中で笑いあって、共に育っていった。 幽体離脱とも違う、夢を共有するあの現象が一体なんだったのかは解らない。しかしそれは僕の臨死体験によって唐突に終わりを告げ、夢を忘れてしまうように僕は全てを忘却していた。 僕が来なくなったあの家で、凛花は、花はずっと待っていたのか。 「・・・入学式でキミを見つけた時はびっくりした。だってもう何年も経ってるのにすぐ分かったんだ。鍛冶屋くんだって」 花は僕をまっすぐに見ている。半端に思い出した事で混乱し、さっきまで花を責め立てていた僕に、まっすぐに向かい合ってくれている。 「だけど声を掛けられなくってさ・・・。幽体の私と、本当の私は違うから。全然明るいヤツじゃないし、久しぶりに会えたのに嫌われたくなかった。だから、直接会いには行けなかった」 保健室で見た白山先生との写真を思い出す。 写真に写っていた幼い花は確かに、昔夢で遊んだ凛花とも、今の快活な花とも違う印象だった。大人しそうで、どこか遠慮がちに笑みを浮かべていた。 「失礼な事だって分かってたけど、幽体で一度様子を見に行ったんだ。その時初めて、鍛冶屋くんも幽体離脱できるって知ったんだ。だから私、やり直すチャンスだと思った。・・・また友達になれるって」 そして凛花は“花”となり、僕の目の前に飛び込んできた。 2人で共有していた筈の思い出話は、今や一方通行で相手には届かない。 僕の忘却を花が知っていたなら、それはとても恐ろしい一歩だったろう。 それでも花は、プールサイドにいた僕に飛び込んできてくれた。 次の言葉が出なくなった花は、また俯いてしまった。 二人の間に沈黙が流れる。 僕の抱いた怒りは結局、僕自身への怒りだ。花に八つ当たりしただけじゃないか。 それでも僕は、聞かずにはいられなかった。 「・・・僕は、何で全て忘れたんだ?あの夏の日、一体何があった?」 「それは・・・」 僕の問いに花が答えを口にしようとし、だがピタリと口の動きが止まる。 「鍛冶屋くん、さっき『どうやって呼び出した』って言ってた?」 「え?」 急に話が変わって、僕は戸惑う。 「あぁ、今日は普通に寝た筈なのに、気付いたらこの上に浮いてたんだ」 そう言いつつ真上の夜空を指差す。 夜空を仰いで、花が呟く。 「あの日、私もそうだったの。気付いたら幽体になってて、近くで鍛冶屋くんが溺れてた」 「それって・・・」 カチリ。 その時、僕の中の記憶の扉がまた少し開いた気がした。 今日一日調べまわった中で、最後まで埋まらなかったピースがはまった音だったのかもしれない。 「花、行こう」 「え?ど・・どこに?」 訳が分からないという顔をしている花に向け、僕はひとつ咳をついた。 「犯人に推理を披露しに行こう。幽体探偵の出番だろ?」 「へ?」 ポカンとした花を置き去りに、僕は体を屈め、思い切り地面を蹴って跳んだ。 僕が今からやることに、大した意味は無いだろう。 思いつきのままやるだけやって、ただ苦い思いを重ねるだけかもしれない。 それでも今は、流れに任せてやってみようじゃないか。
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