公儀の犬

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「最後のいくさになるか」  伊達政宗はつぶやいた。  慶長二十年夏、奥州の梟雄(きょうゆう)と恐れられた伊達政宗は、大坂の陣にて生涯最後のいくさに臨んでいた —— 徳川公儀の配下として……。  政宗といえば、前主太閤(たいこう)秀吉の頃からたびたび謀叛(むほん)の噂が立つ男だった。そもそもはじめて秀吉に謁見(えっけん)した小田原の陣中、政宗は遅参と先の奥州でのいくさによる惣無事令(そうぶじれい)違反とを問われ、白装束を身にまとって秀吉に恭順の意を示したのだ。奥州でのいくさというのは政宗が会津の名門蘆名(あしな)氏を攻めて滅ぼしたことであり、このとき蘆名氏はすでに秀吉と(よしみ)を通じていた。しかし、その秀吉の勢力が奥州の目前に迫るにいたって、政宗はみずからの領土拡張欲を胸にしまいこみ、しぶしぶ秀吉に臣従を誓ったのだ。  この後も、政宗にはたびたび豊臣公儀への謀叛の疑いがかかった。小田原平定がなると秀吉は奥羽仕置をおこなったが、改易された葛西氏・大崎氏の旧領で両家の旧臣たちを中心とした大規模な一揆が起こった。これを政宗が煽動(せんどう)したと訴える者があって秀吉は政宗に上洛を命じ、政宗は黄金の磔柱をかかげて入京、ふたたび白装束をまとい身の潔白を主張した。秀吉は政宗の処罰よりも奥羽地方の安定を優先し、政宗に一揆討伐を命じた。政宗は容赦なく一揆を掃討し、降伏した者たちをもだまし討ちにして殺害している。  その後、秀吉の甥関白(かんぱく)豊臣秀次が謀叛の嫌疑で切腹を余儀なくされたときには伯父の最上義光(よしあき)とともに連座の危機に遭い、(ちまた)には政宗が伯父と共謀して反乱を起こすという噂が立った。このときは徳川家康の()りなしにより連座をまぬかれ事なきを得ている。そして秀吉の死後、次期天下人と目された家康に政宗は取り入ったが、家康が主導して行った上杉征伐では表向きは家康に従いつつも旗色を鮮明にしなかった。家康が征伐軍を率いて東国へ下った隙をついて石田三成らが家康打倒の兵を挙げたため、家康は政宗を疑いつつも上杉牽制を託して西上、関ヶ原にて三成らの軍勢を破り、のち上杉も降伏、家康の天下が確固たるものとなった。この間、家康不在の東国では上杉が最上義光を攻め、政宗は最上方へ援軍を出していたが、同じく最上の救援を行なっていた南部(なんぶ)氏の所領で一揆が起こり、政宗はふたたび一揆煽動の疑いをかけられることになる。  幾度となく嫌疑をかけられた政宗だったが、時の権力者は奥州の雄を敵に回すことを恐れ、手を打ってきた。多くの大名家が攻め滅ぼされ、また改易された時代、政宗は領土拡張の野望をぎらつかせながらも、権力者に取り入ってこの激動の時代を生き延びてきた。—— その政宗もこの年、すなわち大坂夏の陣の年には(かぞ)えで四十九を迎える。徳川の天下はすでに定まり、大坂に残った秀吉の後継、豊臣秀頼に味方する大名はいない。豊臣が滅び、激動の時代が幕を閉じる……。  二十代半ばで豊臣秀吉に屈してからというもの、一気煽動の噂はあれど政宗は表立った独自の軍事行動ができずにいた。秀吉没後の動乱、領地切り取りの絶好の機会であったこのときにも、かたちとしては公儀に従わざるをえなかったうえに関ヶ原本戦の決着がたったの一日でついてしまったこともあり、早々にこの機を逸してしまった。 「こうして、私のいくさ人生は終わる……」  諦観の(にじ)んだ苦笑いが、陣中政宗の(おも)に宿った。
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