ブバスティス

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ブバスティス

 エジプトの国境を越えたムクターさん一家の馬車は、砂漠地帯を何日もかけて、東へ東へと進んだ。そしてメンフィスでナイル川を航行するブバスティス行きの船に乗った。 「父さん、ナイルの辺には緑がいっぱいだね」  レイラの目が輝く。 「豊かな水と土地、これがエジプトだよ」  ムクターさんの声に自信がみなぎる。 「まるで別世界に来たようだわ」  マブルーカさんも興奮ぎみだ。 「母さん、ほんとに黄金の都だね」 「あたしはそんなに欲張りじゃないわ」 「母さん、黄金の話ばっかりしてたじゃない」 「リビアの生活が貧しかったから、つい」  レイラとマブルーカさんの会話を、黙って聞いていたムクターさんが二人にむかって、「マブルーカ、レイラ、これからは食べ物に困らない、豊かな生活をさせてやるからな」  と言って、遠くの巨大な石像を指差した。 「わぁ! 巨大な猫の石像だわ」 「あれが猫の神様?」 「バステト神だよ」  船がブバスティスの港にさしかかると、二体の巨大なバステトの像が家族を出迎えた。 「母さん、すごく大きな猫の像だね」  レイラは巨大な猫を仰ぎみた。 「大きな青い瞳に見つめられると、心の底まで見透かされるような気がするわ」  マブルーカさんは、言葉にできない神秘的な何かを感じた。 「母さんが感じている通りかも知れないよ」  ムクターさんは妻の手を優しく握った。 「あたしもそんな気がする」  レイラはそういってバステト神の青い瞳をもう一度見つめた。  ムクターさん一家を乗せた船が、ゆっくりと巨大な石像の真横を通過すると、船は静かにブバスティスの港に到着した。 「あなた、仕事はどうするの?」  マブルーカさんが不安げに夫を見つめた。 「親友が農園を営んでいるんだ」 「じゃ、父さん、すぐに仕事が出来るんだね」 「そうだよ、レイラ」 「あたしも手伝うからね」 「あなた、あたしも頑張るわ」 「家族みんなで頑張ればすぐに暮らしが豊かになるさ」 「プルルー」 「ダイアンも頑張るんだって」  レイラはダイアンの頭を撫でると、右手でポンと胸に抱きかかえ船をおりた。  ブバスティスの町は、ナイルの恵みをうけた肥沃な大地が広がり、多くの人が農業に従事していた。もちろん町のいたるところには沢山の猫がいて、町の人々からとても大切にされていた。 「まず町の中心部にあるバステト神殿に行って猫の神様に御挨拶しよう!」 「あなた、きっと運が開けるわ」 「もう苦労させないよ」  ムクターさんはそういってマブルーカさんの肩を抱き寄せた。 「父さんも、母さんも、ラブラブね!」  ムクターさんとマブルーカさんは赤面してお互いを見合った。 「プルルー」 「ほらダイアンも喜んでるわ」  こうしてレイラの家族はエジプト入りを無事果たしたのだった。          *  古代エジプト国民の殆は、リビア人に負けないくらい猫好きで猫を愛していたという。その猫好きの国民性に加え、この時代のエジプトは、リビア系の王が統治していたので、エジプトは王朝始まって以来の猫黄金時代になったのだ。  猫達はエジプトのいたるところで飼われ、増やされ、保護され、国の法律で守られた。しかし国外へ持ち出すことを固く禁じられたため、このことが猫の世界進出を遅らせた原因とも言われた。  こうして可愛がられ、保護され、増やされ続けた猫は、エジプトに百万匹はいたと伝えられている。    古代ギリシアの歴史作家ヘロドトスは「もし誰かが猫をエジプトから国外に不法に持ち出そうものなら、その人間は死刑か厳罰に処せられた。万が一、人間が猫を殺したり怪我させたりしようものなら、その人間は直ちに死刑にされるか、さもなくば町中の人々から袋叩きにあった」と書き記している。    このようにエジプト人の猫に対する愛情はとても深く、もし可愛がっていた猫が死ねば、飼い主は眉毛を剃り落として喪に服し、亡くなった猫は各地のバステト神殿の霊廟に運ばれミイラにされて聖墓に葬られた。     エジプトでこれほどまでに猫が大切にされたのは、ただ単に猫が可愛いというだけではなく、猫がネズミから穀物を守り、ネズミを介して広がる疫病を防いでくれるという現実的な理由もあったのだ。
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